第19話 文字が化ける。


 孤月にも燃え盛る、常夏のハイビスカスのような月痕があるのだという事実を。


 月が赤々と豹変するときは刻々と昏天黒地の空が月の輪を食べちゃうんだから。


 何度も思考を旋回するような眩暈が収束すると、辺りは太古のケチを付けようがない常闇が漫然と広がっていた。


 赤いペンキの原色でそのまま塗ったような落月は赫焉と輝耀を増し、その黒漫漫のトンネルの内奥を不気味に染め上げていた。


「帰れない」


 口角が勝手に惣闇の中で動いていた。


「帰りたくても帰れない」


 振り上げるように、頭上から何か、得体のしれない重苦しい物体が無造作に降ってくる。その正体はたくさんの蔵書だった。見覚えのあるタイトルの本が滂沱の瀑布のように降ってくる。


 


 なぜ、降ってくるのだろう。本の嵐なんて、私は余程、言の葉から疎まれているのか。


 文字が化けていく。薄汚い言葉で私の心情は埋め尽くされていく。


 読むのも耐えられない言の葉の毒素が視線を遮りながら篠突く雨として火達磨式のように降ってくる。私はこんな酷く寒くて狭苦しい、腐乱に満ちた空間でひっそりと誰の耳にも入らず、死んでしまうのだろうか? 紙とインクの匂いを付着した本のページと一緒に死臭のようにどす黒い血が降ってきた。


 


 清々しい秋空の湖畔の水辺に咲く金木犀のような紙のページの匂いとべた付く、一生消えない烙印のように逃れられぬ血の生ぬるさ。


 嫌だ。こんなに詰問された罪人のように血まみれにはなりたくない。


 やめて、やめて、やめて、やめて。私は声を絞るように叫び続けた。


 血はそれでも、梅雨末期の車軸を流す大雨のように私の身元へ降ってくる。激烈な夕立のように血の雨は降らす。


「榊の葉を。真依さん、上へ投げて」


 

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