第17話 襲撃-②

 何があった?



 そう千歳羽樹里の脳が現状を認識する前に、彼女の全身が耐えきれないほどの悪寒を訴えた。



 「『命令』だ―――『動くな』」



 まずい―――まずい―――――まずい。 



 みつきという少女を、祖母から譲り受けた時点から、この懸念は当然、存在していた。


 つまるところ、自分以外の主人との遭遇。


 第三主人は、既に故人となっている組織テナントの人間。


 第四主人は、彼女が毛嫌いする祖母、その人。


 そして第五主人が、彼女であるのなら。


 当然、第一主人・第二主人は組織テナントの人間ということになる。


 祖母の側近である佐伯に、このことについて、調べてもらっていたが、なにぶん組織自体が幹部の存在も目的すら掴めない集団だ。必然、かつての主人についての情報は、ほとんどなかった。


 直接みつきに尋ねることもできたわけだが、彼女のトラウマを刺激することは想像に難くない。そのため千歳羽樹里はこの時点に至るまで、その薄暗い部分に踏み込めないでいた。


 結果として、彼女はその事実を、最悪の形で思い知ることになる。


 「みつき、『聞いちゃダメ!!』」


 状況を認識すると同時に羽樹里は叫んだ。


 みつきと呼ばれる少女にとって、命令の優先順位は、基本的に先に受けたものが優先される。


 ただし命令が競合した場合のみ、主人の権限によって優先順位が発生する。


 つまり、いまの状況ではみつきには『動くな』と『聞くな』という命令が同時に課せられていることになる。この場合は、みつきの優先順位は通常、より権限の強い第二主人の命令が実行されることになる―――。



 ――通常は、だが。



 「………………っ」



 「……おお?」



 ただし、そうはならなかった。


 命令の競合は、彼女の脳に過度な負担をかける。


 脳全体が彼女に強制的に命令を遂行させようとし、同時にまったく同じ強制力で行動に抑制がかかる。言ってしまえば、車のアクセルとブレーキを全く同じ強さで無理矢理、踏み込んでいる状態に近い。当然、車体にあたる彼女の脳には凄まじいまでの負荷がかかる。


 ただそんな状態で、絶え間ない頭痛とフラッシュバックに奥歯を噛みしめながら、少女はどうにか羽樹里の傍に立っていた。あくまで羽樹里を守る姿勢を取ったまま。


 その様子に、第二主人たる青年は不可解そうに首を傾げる。



 「みつき!? 大丈夫?!」



 羽樹里が焦りのまま、そう声をかけたところで、みつきはかつてない動揺を見せながら口を開いた。



 「主人!! 逃げて! 早く!!」



 そう少女は叫んだ。だが既に周囲は組織によって包囲されている。



 逃げ場など、どこにもない、そんなことは最初から分かりきっている。



 それでも少女は叫ばざる、おえなかった。



 無為と知って、それでも、尚。



 「『喋るな』『這いつくばれ』」



 そんな少女を見据えながら、青年はどこか呆れた表情のまま、そう告げた。



 瞬間、少女の喉と足から力が抜け落ちる。



 行動としては、反射に近い。彼女の意思の一切を無視した、肉体の強制的な反応。



 研究施設で、幾度となく、晒されてきた文字通りの、言葉による支配と暴力そのものだった。



 彼女に一切の、拒否権はない。人形は遣い手に抗うことなど、はなから許されてはいない。ただ糸の従うままに、命じられたことを為すしかない。



 そうして、命じられるままに膝をついた。だが直後に、みつきは絶え間ない頭痛と、全身を苛む痛みの中で、必死に藻掻くように身体を引き起こす。



 全身の筋肉が、脳から発せられる矛盾した指令に、わなわなと絶え間なく震え続ける。



 立て。



 這いつくばれ。



 立て。



 這いつくばれ。



 立たなきゃ。這いつくばれ。



 守らなきゃ。這いつくばれ。



 『喋るな』という命令の元、喉の動きは完全に停止して、微動だにもしない。



 それでも少女は必死に、羽樹里を守るため、その足を震わせていた。



 隣で、彼女の主人たる少女は頬を涙で濡らしながら、その傍に寄り添って、必死に彼女を連れて逃げようと藻掻いていた。



 青年は、その様子をつまらなさそうに眺めると、頭を掻きながら嘆息をついた。



 「はあ……誰だか知らないけど、上位命令を仕込んだな……? おかげで挙動がバグじみてる。ったく、これやると色々と調整がめんどくさいんですけど。私のおもちゃをよくもまあ、好き勝手使ってくれたもんだ」



 それから、スッと軽く息を吸いこんだ。



 呆れたように、軽蔑するように。



 ちっぽけな少女たちの足掻きを、丸めてゴミ箱にでも棄ててしまうように。



 青年は、無造作に口を開いた。



 「認証コード『5851289977407076040849698740073895789952232674』―――




 バチン、という幻聴がみつきの脳内で、無情にも響き渡った。




 彼女の拒絶も。



 感情も。



 意志も。



 何もかもを無視して、蔑ろにして。



 スイッチが脳内で強制的に切り替わる。切り替わってしまう。



 ゆらりと少女は立ち上がった。



 その瞳に色はなく、感傷はなく、先ほどまでの拒絶や焦燥すら何もない。



 今、青年の言葉によって、彼女を形作っていた全てが塗り替わってしまっている。



 「ったく、手間を取らせる……、まあいいか。さて皆さん、目的は済んだ。撤退しますよ」 



 青年がそう言っている間にも、みつきと呼ばれた少女は、ふらふらと足取りが覚束ないながら、第二主人の元へと足を進めている。



 「みつき……?! みつき?!!」



 すでに羽樹里の声は、彼女の耳に届いていない。



 いかなる命令も、既に彼女の脳には染み込まないでいる。



 それでも羽樹里は、みつきの元まで走っていた。



 ふらふらの少女の肩を抱いて、涙ながら必死に声をかけている。



 「どうしたの?! みつき!? みつき!?? ああ、もう!」



 泣きながら、惑いながら、それでも羽樹里の脳は合理的に、この現状の打開策を模索する。裏社会で何十年と大蛇のように這いずり続けていた祖母の教えが、皮肉にも彼女を突き動かす。

 


 「『58512899774070760408――――』」



 そう、少女が数字の羅列を口にした瞬間に、そばにいた組織の構成員の一人が慌てて、彼女をみつきから殴って引き剥がした。



 その眼には確かな焦りが見えた。状況から推察するに、彼女が殺し屋の命令権限を上書きしようとしていたのは、事情を知らない構成員にも見て取れたからだ。


 

 ただ、そんな少女のあがきを見ても、青年はただ、不快そうに眺めるばかりだった。



 「……え、今の一瞬で、認証コード暗唱したの? きしょくわるいなあ……。これだから才能のある奴は……」



 「店長、その殺し屋を早くこいつから、離してください!」



 構成員の息は荒れている。同朋を十二人、始末されたみつきへの畏怖が既に彼らの中には確固たるものになっていた。ただ、それに反して、科学者の青年は、ただその焦りすら嘲るばかりだ。



 「あー、心配しなくていいですよ。認証コードは毎回変わるから。仮に今の数字をそいつが全部唱えたとしても、命令は切り替えられない。もう私の命令が通った時点で詰みなんですよ」



 後ろ手を抑えられながら、涙に濡れた瞳で、羽樹里は青年を睨んだ。そんな青年の元に、生気を失くしたみつきと呼ばれていた少女は徐々に近寄っていく。



 あと数歩、となったところで、少女の足が、少し、鈍った。



 ただ、そんな少女を無視して、青年は少女のあごを無造作に乱暴に掴んで引き寄せる。



 「おかえりぃ、ハエトリグモ。つってもまあ、今は無理矢理命令の処理に割り込んだから、まともな反応も期待できないね。要調整って奴だな」



 千歳羽樹里はその様子を後ろ手を抑えられながら、奥歯が割れんばかりに歯噛みして睨んでいた。そんな少女の鬼気迫る様子に、若干気おされながら、羽樹里の手を押さえていた構成員は青年に向かって口を開く。



 「こっちの彼女は……どうしますか?」



 青年はしばらく、自身の手の中にある、みつきの虚ろな表情を満足げに眺めた後、興味なさそうな視線を羽樹里に向ける。それから、うーんと軽く首を傾げてぼやくように口を開いた。



 「興味ないけど……その子、確か組織の議題でも時々上がってる奴でしょ? 『とりあえず様子見』……って結論になってるやつ。……めんどくさいしなあ、なんなら私が薬漬けにして人形に変えちゃいますけど?」



 そうどこか投げやりに青年が欠伸をする様に、構成員の男は少し慌てたように首を横に振る。



 「それは、『落とし子たちロスト・チルドレン』の意思に反するのでは……?」



 ただ、その言葉にすら青年は終始感心がなさそうな素振りのまま、構成員の男を値踏みするように眺めていた。



 「つっても、結局のところ、そのお嬢さんが私らにとっての益獣になるか、あの婆さんみたいな二匹目の怪物になるか、って話でしょ? それなら今、こっちの言いなりになる人形に変えた方が話が早くないですか?」



 そのやり取りを聞きながら、羽樹里は必死に怒りを押さえながら歯噛みする。



 しかし、今、感情に身を任せるわけにはいかない。現状、成さねばならないのはそれじゃない。



 それがわかっているから、恐怖も、怒りも、何かもを押し殺して、少女はじっと耐えていた。



 「しかし……」



 そう、構成員の男が言葉を返そうとした時だった。



 その一瞬、ほんの僅かな一瞬に、彼女たちの耳に、という小さな何かが響く音がした。



 あまりにも一瞬だったので、そこにいた大半の人間はそれを感知しなかった。ただ殺し屋の少女だけが、その音の出どころを、自身の直上に広がる空へと眼を向けていた。




 「                          」




 。喉が潰れるギリギリの範囲に調整して、彼女の声帯と肺を使って、あらん限りの声で叫んでいた。



 普段、良く響き人の耳に残る彼女の声が、あえて意図的に人に不快感を与える金切声として出力される。



 殺し屋の少女を除く、そこにいる大半の組織の構成員が、反射的に耳を塞ぎ、羽樹里の手を押さえていた構成員のみが耳を塞ぐこともできずに顔をしかめた。



 その一瞬だった。



 大通りの中央に、ドリフトするような格好で、



 途中にいた組織の構成員に対して、減速することもなく、慌てて回避する彼らの中を波を押しのけてつっきるように、暗闇の中、ライトを振り回しながら道路脇に横づけた。



 その場にいた二十人近い構成員の大半が状況の変化に困惑する。



 ただ、戦闘経験のある数人はその状況に慌てることもなく、各々の銃を構えた。



 しかし、その反応すら、羽樹里の叫喚によって、コンマ数秒の遅れが発生している。



 そして、そのコンマ数秒の遅れさえあれば、にとっては充分だった。



 未だ走り続ける車の側面から蹴飛ばすようにして開けたドアから、二人の影が飛び降りる。



 一人は二十代半ばのカフェのエプロンを着けた青年、もう一人は二十代前半の黒服眼鏡の女性。



 「 



 二人の名前を呼ぶ声に反応して、羽樹里の位置を確認した真島、佐伯の両名は同時に駆け出した。



 佐伯は真っすぐに羽樹里の元へ、真島は視線を回して通りぬけざまに、拳銃持ちに狙いを定めると、持っていた警棒で、反応する間も与えずに、その腕を振り払った。



 鈍く、耳障りな音を響かせながら、拳銃持ちの手から武器が零れ落ちる。その間に、羽樹里を押さえていた男は、スタンガンを持った佐伯によって引き剥がされていた。



 「お嬢!! 状況は?! みつきちゃんどうなってんだこれ!?」



 真島はそう口にしながら、咄嗟に向かってきた組織の構成員を、警棒で打ち払って近づかせないように牽制する。といっても、十数人に囲まれている現状は、喧嘩慣れしている彼でも些か分が悪い。尋ねる声も、どことなく焦りを含んでいるのが隠しきれていない。



 ただそんな緊急的な状況においても、白衣の青年の表情は揺らいでいない。



 どこか嘲るような、愉しむかのような表情で、突如現れた二人の闖入者の様子を眺めている。



 現状、真島、佐伯の両名が戦闘に参加しても形勢に揺らぎはない。



 何故なら、根本的な数の利は覆っていない。しかも、見たところ、この二名は銃などの非合法な武器で武装している様子もない。



 何より、先ほどまでのやり取りで、ハエトリグモに刻まれている上位命令があくまで『千歳羽樹里を守ること』であるという、推測が成り立っている。



 つまり、青年が殺し屋へ、この新たな闖入者二人に対しての攻撃を命じれば、先ほどまでのようなバグは起こさない可能性が高い。恐らく数秒と待たずに、二人の命は塵と消える。



 故に、白衣の青年の表情が揺らぐことはない。絶対的な有利、殺し屋の少女という最強のカードは依然彼の手の内なのだから。



 そして、その状況を理解しているのは、千歳羽樹里も同様だった。



 瞬間、彼女の脳裏を溢れかえるほどの感情が交差する。



 自責。状況に対する自分の判断ミス、彼女に課したおねがいという名の縛りが裏目に出たこと。



 怒り。理不尽な現状と、それに対する無力感。今にでも殴り飛ばしたい顔が、そこにあるにもかかわらず、それをなすことは彼女には叶わないこと。



 そして、何より。



 今、この場所で―――みつきを見捨てなければいけないということ。



 後悔。



 不安。



 愛情、に近い、何か。



 そして、恐らく彼女自身のものではない、悲嘆。



 それらを全て、羽樹里は自分の胸の内へと、飲み込んだ。



 この状況においてもなお、彼女の脳は、合理的な現状への判断を優先する。優先してしまう。



 涙が零れる瞳をただ開いて、泣き叫びそうになる喉を必死に抑えて、震える足を、劈くような胸の内を、何もかもを抱えたまま。



 それは時間にすれば一秒にも満たない懊悩だったが。



 震えるほどに滲んだ瞳で、自分を見つめる羽樹里を、もう意思のない殺し屋の少女はただじっと見つめ返していた。



 「 退



 真島と佐伯の両名は、詳細な状況を正しく理解はしておらず、みつきをこのまま取り残していいのか、それすらも判断突いていない。



 それでも、少女が全感情を持って放った、涙に濁った命令は、それだけでたった二言で状況を十二分に伝えていた。故に彼らは、その命令を、ただ真摯に、迷うことなく、そのまま実行した。



 佐伯が羽樹里の手を引いて車に駆け出す。真島がその後背について、牽制しつつ今しがた二人が飛び出てきた車を目指す。



 そして数秒後、飛び込むように三人が車に乗り、それを待っていたかのように、急発進した車がその場を去った。



 時間にしておおよそ、十数秒にも満たない間の出来事だった。



 嵐のような激動が去った後、組織の構成員たちは多少の動揺を抱えながら状況確認に動き出す。


 「店長、追撃は?」


 「必要ない、どうせあれじゃあ、なにもできないですから。それより、撤収と搬入を急いでください。今日中に『箱』までこの人形を持って帰りたい」


 「負傷者がいささか多いので、時間がかかるかと……。さっきの二人に、こちらは四人もやられました」


 「ああ、そうですか。じゃあ、私はお先に撤退するんで、後始末お願いしますね?」


 「…………承知いたしました」 


 状況の確認を終えた白衣の青年は、満足げに自分の手の中にある殺し屋の少女の顔を眺めると、連れ立ってワゴン車に乗り込んだ。



 後部座席で、隣に座る少女の瞳を眺めながら、青年は満足そうに頷いて、運転手に発車を命じた。



 みつきと呼ばれた、殺し屋の少女は、ただじっと何も言わず、何の反抗を示すことなく従順にその場に座って窓の外を眺めていた。



 そこに彼女の意思はなく。



 そこに彼女の想いはなく。



 そこに彼女の自由はなかった。



 自分の頬から一粒だけ零れた何かの意味すら、少女には見出すことすらできなかった。

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