かけがえのないもの

西しまこ

第1話

 お母さんが脳梗塞を起こしてから、一年になる。


「お母さん、お昼ごはんはうどんでいい?」

 返事はない。

 テレビ画面を塞ぐ形で立ったので、眉をひそめられる。

「ごめんね、テレビ見ていたんだね」

 お母さんは一日中テレビを見て過ごす。そして、言葉は一言も発しないけれど、感情はあるのだということが分かる。


 脳梗塞を起こし、身体が不自由になったばかりか、全くしゃべらなくなってしまったのには、ほんとうに参った。筆談も出来ない。

 お母さんは朗らかなひとだった。よく笑い、よくしゃべった。子育てもお母さんに相談して、協力してもらって、やってきていた。

 それなのに。

 食卓テーブルに座って、テレビを見ている。一日中。

 短い白髪頭はいつも定位置にある。ほとんど動くことはない。

 お料理が好きだったな。

 お母さんが作ってくれた、季節野菜を使った煮物や魚料理を思い浮かべる。私は魚料理をするのが苦手だった。お母さんが病気になってから、魚料理を食べていない。


「お母さん、そろそろトイレに行っておく?」

 嫌そうな顔をするけれど、トイレに行く時間だった。

「ね、トイレに行こう?」

 くぐもった声で母が応えたように思ったので、手をとってトイレまで連れていく。


 母の介護にはお金も時間もかかった。

「おい、そろそろ車検だぞ。お金あるか?」

 居間から夫の声がした。

 そうか、車検。困ったな。お父さんも歩行が困難になって、長い。お父さんにもお母さんにも、ほんとうにお金がかかる。予定外だ。

 お母さんは無事トイレで用が足せた。よかった。

 お金がかかる。だけど、大切なお父さんとお母さんだ。

「車検のお金、どうしよう?」

 お母さんといっしょに歩きながら、居間にいる夫に声をかける。

「とってないのか」

「とってあったんだけど、ヘルパーさんとかに払ったらなくなったのよ」

「そうかあ」

 夫はわたしのお父さん、お母さんといっしょにいてくれる。優しいひとだ。怒ったところを見たことがない。


 うちは貧乏だ。だけど、かけがえのないものがある。

 さて、車検と介護費用、どこから出そうかな。パートを増やそうかな。

 ――そろそろ、デイサービスに行っているお父さんが帰ってくるころだ。




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