──14── ホワイトブリーチの男

 にぎやかな表通りをくぐりぬけ、ラブホ坂のはじまりの噴水広場までやって来た。とりあえずここで時間をつぶそうと、二人で噴水のふちに腰掛ける。


 見上げた斜面には、いちめんにきらきらした光が散らばっていて、まるでそういう星空みたいだった。ピンク、ブルー、イエロー、グリーン、白や赤。ちかちかと色とりどりの主張をするのはすべてラブホの看板だ。


「はー……壮観だな」

「そう? まあ、ここからは坂の景色を一望できるしね」

「な、あれは?」


 指差した先、折り重なるラブホの電飾のいちばん向こう。坂のてっぺんには、ひときわ大きなお城みたいな建物があった。一ノ瀬がああ、と言う。


「この街で一番高いラブホだね。全部屋がスイートみたいなもので、とくにアメニティがすごくて人気」

「へえ……おまえ行ったことあんの?」

「JK風リフレで何度かね」


 さらっと言われて、やっぱりこいつは別世界の住人なんだなあと実感する。俺の知らないこの街の文脈も、こいつにならわかるんだろうか。


 ぼんやりと、星空みたいな坂を眺める。ラブホゾーンはびっくりするほど人の気配がなくて、静かだった。たまに車がビニールののれんをくぐり抜けて入っていくくらいだ。

 しんとした夜の空気を吸い込んで、俺はぽつりとつぶやいた。


「なんか、あんなに賑やかだったのにな」

「ここは呼び込みの必要もないし、出入りを見られたくないって人がほとんどだからね」

「そういうもんか……」


 言われてみればそうかもしれない。ラブホに入るところを見られるというのは、今から性的なことをします、という瞬間を見られるのとほぼ同義だ。それはたしかに、ものすごく気まずいだろう。


 そんなことをつらつら考えていたときだ。唐突に、一ノ瀬があっ、と硬い声を上げた。ぐいっ、と袖を引っ張られて、身体が勢いよくかしぐ。


「うわわ、なんだよ」

「敬斗、あれ!」


 一ノ瀬の細い指が、ぴっ、と坂の向こうを差していた。指先を視線で追いかければ、ちょうどラブホから出てきた人影が見える。

(あれは……)

 女の子だった。それも、そうとう若い。制服こそ着ていないが、顔付きや服装からして、俺とほとんど変わらないように見えた。

 その女の子が、道の端に走り寄る。建物の影から、すっと一人の男が現れた。

(白い髪……!)


 まぶたを細め、ぎゅっと目を凝らす。目は──赤かった。こいつだ。


 一ノ瀬が表情を険しくして腰を浮かせる。俺も弾かれたように立ち上がった。

 二人して示し合わせたように、勢いよく坂を駆け上っていく。男は少女からお金を受け取っているようだった。その姿が少しずつ近付いてくる。しかし。


 男がはっ、とこちらを振り返った。一ノ瀬を見た瞬間、赤い瞳が大きく見開かれる。


「あ──っ!」

 唐突にばっ、と身を翻して、男が逃げ出した。呆然とする少女を追い抜いて、俺は男の背を追いかける。だが思ったより足が速い。舌打ちする。


「一ノ瀬ッ」

「なに!」

「悪い、先行く!」


 短く言い放つと、可憐な瞳がちょっと見開かれて、頼む、と低い返事があった。無言でうなずく。俺は息を吸うと、ぐっ、と腿に力を込めた。勢いよく地面を蹴り込んで、全力で男を追いかける。


 上り坂を飛ぶように駆けた。ぐんぐん男の背中が近くなる。男がちらっとこちらを振り返って、焦ったように顔を引きつらせた。角を曲がって、白髪の人影が逃げるようにラブホの駐車場に飛び込んでいく。


「逃がすかよ!」

 ぎゅっ、と足裏に力を込め、俺ものれんの向こうに飛び込んだ。方向転換で推進力をロスしたのだろう、男の背はもうすぐそこだった。逃げ道を塞ぐようにルートを取り、男を壁の角に追い込む。


「も、もう、逃げらんねえぞ……!」

 息を切らせてぎっと睨むと、男はものすごくびっくりした顔をした。あ、そうか、うっかり地の声出しちまったけど、俺いま女装してるんだった。


 そう思った瞬間、男がチッ、と舌打ちした。だが、その目が俺の背後に向けられて、男の顔にいびつな笑みが浮かぶ。

(なんだ……?)

 冷静に考えれば、明らかに悪手とわかるのに。俺はつられて振り返ってしまった。

 失態を犯した俺のすぐ横を、飛び出した男が走り抜けていく。追い抜かれざま、けばけばしい香水のにおいの混ざった風が逆巻いた。


「あ……っ」

(やばい、逃げられる──)

 だが。男が向かった先、駐車場の出口には、すでに人影があった。膝下の、ボックスプリーツの裾が静かに揺れる。肩を上下させ、はあはあと息を散らした一ノ瀬だった。


 男は無言で一ノ瀬に突っ込んだ。逃げるかと思われた一ノ瀬はしかし、きっ、と目元を鋭くして、


「ふッ──」

「うあ……ッ⁉」


 だあん、と音を立てて男を組み伏せた。背中に体重ごと膝を乗せ、ぎりぎりと腕を締め上げる。見覚えのある、俺もやられた技だった。


「っててて……い、いてぇって!」

 完全に組み伏せられた男が、盛大に悲鳴を上げている。俺はほうっ、と大きくため息をつくと、息を荒げて男を拘束する一ノ瀬にゆっくり歩み寄った。


「やっぱおまえ、強ぇなあ……」

「これしかできないけどね」


 暴れようとする男をさらにひねり上げながら、一ノ瀬は淡々と言う。護身用に覚えたんだ、と冷静な声。


「相手が組み付いてくれなきゃ出せない技だから、助かった」

「なるほど……」


 こいつも、一ノ瀬を避ければ逃げられただろうに。清楚な見た目に騙されて、うっかり最悪の選択をしてしまったらしい。お気の毒さま、と内心でつぶやく。

 一ノ瀬はぐっ、と男の背に深く膝を押し込むと、細い指を伸ばして、彼の顎をねじるみたいにぐいっと掴み上げた。


「どうして逃げたの」

「っ……あんた、〝此倉街の天使〟だろ」


 それを聞いて、一ノ瀬はああ、みたいな顔をした。切れ長の清楚な瞳が、すうっ、と細くなる。


「そういうこと。さっきお金もらってた子、アンダーでしょ」

「……」


 男がぐっとくちびるを噛む。それがなによりの答えだった。一ノ瀬は軽蔑したような目をして、淡々と続ける。


「〝此倉街の天使〟、つまり私がアンダーの子に肩入れしてるのは有名だもんね。そんな私の前でアンダーへの売春斡旋なんてバレたら、この街じゃやっていけなくなる。だから逃げた。そんなところ?」


 男は黙って顔を背けようとして、けれど一ノ瀬の手でぐっ、と顔を元に戻された。苦々しげな表情に向かって、一ノ瀬は怖いくらい冷たい顔で問いかける。


「何割もらってるの」

「……七割」

「なにそれ。いくらアンダーを雇いたがる店がないからって、暴利にもほどがあるでしょ」


 ぐっ、とくちびるを噛む男。一ノ瀬は冷え切った表情のまま、ずい、と端正な顔を近付けた。


「キャストのリスト、あとでちょうだい。その子たちぜんぶ、私がもらうから。いいよね」

「う……」


 こくり、と小さなうなずき。ふ、と一ノ瀬が息を吐いた。ちら、とこちらを見られて、小さくうなずく。

 俺は大股で歩み寄ると、組み伏せられた男になあ、と呼びかけた。


「聞きたいことがある。小野塚ゆりを知ってるか」

「小野、塚……?」

 誰だそれ、みたいな顔をされた。顔をしかめる。

「知らないわけないだろ。あんたがこそこそ話しかけてた子だろうが」

「敬斗。たぶん、『フォーチュンパープルのゆうちゃん』って言わないとわかんないよ」

「あ、そっか」


 すると、あっ、みたいな声を上げ、男が小さくうめいた。一ノ瀬がぐっと体重をかけなおす。たちまち痛ェ、と情けない声がした。


「知ってるなら早く話す。ちゃんと話したら、あんたにも別の仕事紹介してあげる」

「い、いっててて……! わかった、わかったって!」


 じたじたとのたうつ男を押さえつけ、一ノ瀬はもう一度「早くする」と命じる。男がううう、とうめいた。


「フォーチュンパープルのゆうって子なら、たしかにスカウトかけたよ。やたら感触よかったから覚えてる」

「感触が──よかった?」


 あのゆりが、売春の斡旋に好感触? 信じられない。

 しかし男は嘘を吐いたような様子もなかった。ねじ伏せられた痛みをこらえつつ、淡々と彼は言う。


「その場でアプリ入れてもらって、連絡先交換して……たしかそんとき言ってた」

「なにを」


 なにかの手がかりかもしれない。思わず食い気味で尋ねてしまった。一ノ瀬も、じっと男の言葉を聞いている。

 男は思い出すような目をすると、ええと、とつぶやいた。


「なんか思いつめた声で、『ここに連絡すれば、そういう女になれるんですか』って」


(そういう、って……?)

 思い出したのはついさっきの出来事だ。顔にかかった髪をそっと払いのけられて、覗き込まれて。見知ったはずの甕岡の、ぜんぜん知らない表情が言った言葉に、よく似ている。


 ──きみはまだ、そういうのじゃない。


 じわじわと、よくわからない感覚がまとわりつく。気が付けば俺は顔をしかめていた。なんとなく、あの感覚のヒントみたいなものがほしくて、一ノ瀬を見る。しかし。

(あれ──?)


 一ノ瀬は、端正な顔をこわばらせて、黙っていた。薄く開いたくちびるを固くして、小さな息が出入りする音が、かすかに聞こえてくる。


「いち──えっと、おい?」


 うっかり名前を呼びそうになって、慌てて引っ込める。俺の呼びかけに、細い肩がはっ、としたように揺れた。「ごめん、ぼーっとしてた」と小さな声。


「で。その子と、連絡は取ったの」

「取ってねえよ……最初に交換しただけで、通話もメッセも一度も来てない」

「会ったのは」

「スカウトのときの一回だけだって……なんも知らねえよ」

「じゃあ、今どこにいるかも」

「知るわけねえだろ⁉ なあそろそろ離せって、痛ぇよ!」


 俺と一ノ瀬は黙って視線を交わし合う。嘘を吐いている様子はなかった。おそらく間違いない。こいつは──ゆりの行方を知らない。


「……わかったよ」

 忌々しげに言うと、一ノ瀬はゆっくりと男を解放した。ふらつきながら立ち上がる男に、一ノ瀬が吐き捨てる。


「キャストのリスト、今すぐ送って。それと、ゆうって子の連絡先も。仕事の紹介は、その後」

「わかったっつうの……」


 ぶちぶち言いながら、男はスマホから黄色のアイコンを立ち上げた。メッセージアプリの一種らしい。一ノ瀬も同じアイコンを自分のスマホでタップして、男とメッセージをやりとりしている。


 最後に二度とするなと念押しして、一ノ瀬は男を帰らせた。逃げるように走る白髪の後ろ姿が見えなくなるのを確認して、俺はふーっ、と息をつく。


「おつかれ、一ノ瀬。助かった」

「追い詰めたのは敬斗でしょ。さすが元陸上部」


 さらりと言う一ノ瀬のスマホには、名前欄に『ゆう』とだけ書かれたプロフィールがある。俺はおずおずと画面を指差した。


「それ、小野塚の連絡先、だよな」

 こくりと頷きが返ってくる。UIこそラインとそっくりだが、見たことのないメッセージアプリだった。一ノ瀬が淡々と言う。

「これ、出会い系とかでよく使われるやつ。普段使ってるのと同じアプリでやりとりすると、誤爆とか本名バレとかあるからね」

「はあ……」


 そういうもんなのか。俺はまじまじと一ノ瀬の画面を見た。アイコンにはなにも設定されておらず、名前も『ゆう』の二文字だけ。プロフィールにもなにも記されていない。こんなものが本当に、ゆりに繋がる連絡先なんだろうか。

 顔をしかめる俺の意図を読んだらしい。一ノ瀬が「敬斗」と小さく俺を呼んだ。


「このアカウントが生きてるかどうかはわからないけど。まっとうな大人や友達は知らない、『ゆう』としての連絡先を手に入れたのは大きいよ。一度、連絡してみる価値はある」

「……そうだな」


 今はこのアプリだけが、ゆりと俺たちをつなぐ、細い細い蜘蛛の糸なのだ。たぐってみる価値は十二分にある。


 ふーっ、と息をついた。薄暗いラブホの駐車場、その片隅で、たった二文字の情報しかないプロフィール画面がうっすらと光っている。


 わずかな緊張を覚えてくちびるを噛む俺に、一ノ瀬は「すぐにカラオケ店に戻って、連絡してみよう」と静かに言った。反対する理由はもちろん、ひとつもなかった。



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