第4話 小野塚ゆりの事情

──15── つながった接続

 カラオケ店に戻った俺は、ばたばたと男の格好に戻った。もしもゆりの居場所がわかったときに、すぐに迎えに行けるようにだ。


 強引にメイクを拭ったせいで、頬や目元がひりひりする。メイク落としシートをしまう一ノ瀬からスマホを借りて、俺は手元を見下ろした。


 見たことのないメッセージアプリ。一ノ瀬のユーザー名はシンプルに『天使』だった。アイコンは首から下の制服写真だ。

 アプリこそ違うものの、UIやボタン配置なんかはラインとほとんど違わない。表示させたままのゆりのプロフィールから、おそるおそる友達リクエストを飛ばしてみた。


 一ノ瀬とふたり、祈るようにスマホを見つめて数分間。息が詰まるような時間だった。そして、

「あっ……!」

 ふっ、と承認が下りた。友達一覧に『ゆう』と書かれたアイコンが追加される。


 一ノ瀬と顔を見合わせ、うなずきあった。間違いない。まさに今、ゆりはこのアカウントを見ているのだ。

 次はどうすればいいだろう。どうすれば、ゆりに怪しまれることなく、スムーズに連絡を繋げるのか。


 迷っていると、一ノ瀬が俺の手からするっ、とスマホを奪い取った。桜貝のような爪が、すっ、すっ、と動いてメッセージを打ち込んでいく。


『はじめまして。承認が下りたってことは、私のことは知ってますよね。もしよかったら、お仕事のことで、今から通話してもいいですか?』


 なめらかに増えていく文字を、一ノ瀬は躊躇なく送信した。ノータイムで既読がつく。ゆりは今、メッセージ画面を開いているようだ。


 少しの後、ふっ、とメッセージが送られてきた。

『はじめまして、天使さん。ゆうと言います。他でもないあなたから、お仕事のことで連絡ということは、もしかして斡旋なのでしょうか』


 遠慮がちだが、真面目で丁寧な文体。間違いない、ゆりだ。

 俺はこくりと唾を飲むと、身を乗り出してスマホを覗き込んだ。一ノ瀬が、さらさらと続きをスワイプしていく。


『斡旋するかどうかは、あなたの希望次第です。それもふまえて、ちょっと通話でお話をさせてほしいんです。もちろん、お時間が許せばですけど』


 ぽん、と送信。数十秒ほどレスポンスが途絶える。祈るような気持ちだった。そして。


『わかりました。どうぞおかけください』


 はあっ、と詰めていた息を吐いた。これで一歩は前進した。とはいえ、たぐりよせたゆりへの糸はまだまだ遠い。緊張を、切るわけにはいかなかった。


 一ノ瀬が真剣な顔で、俺にスマホを渡す。受け取る指先が、緊張で少しだけおぼつかなかった。

 プロフ画面に飛んで、通話ボタンに親指を置こうとして、心臓がどっ、どっ、どっ、とやかましく音を立てる。すっかり乾いてしまった口の中、強引にごく、と喉仏を上下させて、頼む、と心のうちでなにかに祈った。


 勇気を出して、通話ボタンをタップする。数コールの呼び出し音。プッ、と電波がつながる小さな音。


「……はい」

 緊張したような、警戒したような。どこかこわばった少女の声は、間違いない、俺の聞き慣れたゆりの声だった。


「小野塚……?」

 おそるおそる呼びかける。ひくっ、と通話の向こうで息を呑む音がした。

「その声──敬斗くん? どうして……」

「どうして、って……決まってるだろ、小野塚を探してたんだよ! よかった、繋がって……」


 ほっ、と息を吐く。けれど電波越しに、ゆりが強烈に戸惑っている気配があった。静かな、けれど厳しい声。


「……なんで、〝天使〟の名前なんか使ったの」

「え」

「それに、このアカウント。どうして、敬斗くんが知ってるの」


 警戒もあらわな声音に、俺はただ戸惑う。ゆりのこんな声、一度も聞いたことがなかったからだ。どうしてって、と声が漏れる。


「そりゃ、俺がおまえを探しに、此倉街に突っ込んだからだよ」

 正直に言うと、ゆりは少しだけ黙り込んだ。

「……みゆぽもから聞いたんだ」


 ぽつり、と小さく言う。その声ににじむ感情がうまく読み取れなくて、俺はかすかに眉を寄せた。


「そうだよ。おまえなんで、あんなとこでバイトなんか──ああ、今はそうじゃねえな。それより、小野塚は無事なんだよな? 怖い目に遭ってないよな……⁉」

 どうかそうであってくれ、とすがる気持ちで問いかける。ゆりはためらうような息を吐いて、ぽつりとつぶやいた。

「……うん」

「そうか──そうか……! よ、よかったぁ……」


 こうして話ができているということは、少なくとも普通に声を出せて、自由に通話をかけられる状況であるのは確かだ。そんなことは百も承知だったとしても、こうして直接無事を聞いて、俺の内側にはっきりした安堵がこみ上げた。


 どっ、と全身から力が抜ける。手の中からスマホが滑り落ちそうになるのを慌てて握り直した。電波の向こうへ呼びかける。


「なあ小野塚。みんな、すごく心配してる。なにがあったか知らねえけど、まずは帰ろうぜ。な?」

 ゆりは答えない。ただじっと押し黙って、耳に押し当てたスマホは不自然なほど静かなままだ。

「なあ、帰ってきてくれよ。みんな小野塚が戻ってくるのを待ってる」


 返答は、やっぱりなかった。ひたすらに続く、いたたまれないような沈黙。俺は焦りをこらえて、小野塚、と彼女の名を呼んだ。


「とにかく一度、家に帰ろう。まずは戻って、それから、親と喧嘩でも話し合いでも、なんでもすればいいだろ」


 それでも声は聞こえてこない。電波の調子が悪いのだろうか、と不安になる。だが、確認した電波状況はきっちり複数本立っていて、なんならカラオケ店のWi-Fiすら飛んでいた。


「小野塚、おい小野塚? なあ、帰ろうって。それとも、怖い目には遭ってないっつったけど、帰れない状況なのか?」

「……ううん」

「だったら! 迎えに行くから、一緒に帰ろう。家の人に嫌なこととか、言いたいこととかあるんなら、俺も美優も力に──」

「敬斗くん」


 唐突に、きっぱりした呼びかけが、俺の言葉をさえぎった。えっ、と声が落ちて、俺は反射的に息を詰める。耳にスマホを押し付けてみれば、小さな電子機器のスピーカーから、聞いたこともないほど張り詰めた声がした。


「帰らない」

「お……小野塚?」


 一度だって俺が聞いたことのない、硬い、拒絶に満ちた声。はっ、と喉の奥で言葉が詰まる。吐きかけの息を止めてしまった俺とは裏腹に、小野塚はすうっ、と小さく息を吸った。


「私。絶対、帰らない」


 きっぱりとした、明瞭な断言。俺は混乱するしかできなかった。

「ど、どうしたんだよ。そんな意固地になって──」

「敬斗くんには関係ないでしょ」

 ぴしゃり、と言われて思わず肩が跳ねる。言葉をつぐんでしまった俺の耳に、ゆりの鋭い声が響いた。


「とにかく私、家にはもう、二度と帰らないから」

(二度と、って──)

「ば、バカ言うなよ! 帰らないって、じゃあおまえ、これからどうすんだよ」

 うろたえる俺に、ゆりは冷めきった声で言う。

「どうとでもなるよ」

「なるわけないだろ⁉」

 ふっ、とゆりが笑う声がした。俺の知らない笑い方だった。

「敬斗くん、此倉街まで、私のこと探しに行ったんだよね」

「え? あ、ああ……」

「だったら、わかるでしょ。女だったら、あの街は誰でも受け入れてくれる。どうとでも──暮らしていけるんだよ」

「な──っ」


 どうとでも。その言葉の意味することを悟って、発言のとんでもなさに眩暈がする。思わず声を荒げていた。


「やめろよそんなの! なあ、帰ろうって!」

 スマホをぎゅっと握りしめて、俺は必死に声を紡ぐ。

「一緒に合宿、行くんじゃなかったのかよ! みんなで星いっぱい見て、プラネタリウム作るって!」

「え? ああ……そんな話も、あったっけね」

「あったっけね、って……」


 あっさりした物言いに、絶句するしかなかった。信じられない。俺がいま話しているのは、本当に、あの小野塚ゆりなのだろうか。

 耳に届くのはたしかに聞き覚えのある彼女の声だ。それなのに、電波の向こうの人物が、なんだかぜんぜん知らない、別の誰かに思えてくる。


(それでも……小野塚は、小野塚だ)

 たとえどんなに、別人みたいになってしまっても。今、俺と喋っているのはゆりだ。母親だって美優だって、甕岡さんだって心配してる。俺がここで、諦めたら駄目なんだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る