──9── 初日の報告

 次の日。真夏の陽光がまばゆく差し込む天文部の部室で、俺は美優と向かい合って座っていた。PCの前にひとり分の椅子が余った空間は、いつもより少しがらんとしている。


 今日は夏休みの補講の日だった。朝から古典や数学、英語なんかと向き合って、実際よりずっと長く感じた補講は昼前にようやく終わった。その間ずっとうつむいていた美優を引っ張って、やっと部室に落ち着いたところだ。


「美優。昨日、ちゃんと眠れたか?」


 ハイライトの入った巻き髪が、力なく首を振る。美優は思いつめた様子で、すっかりやつれしまっていた。


 ゆりはまだ見つからない。連絡のひとつも来ないままだ。今日の夕方には、母親が捜索願を出す予定だという。ゆりの母親もまた、娘の不明に憔悴しきっていると美優から聞いた。


 俺はスマホを取り出すと、美優、と彼女に呼びかける。ゆっくりと顔を上げる美優。赤くなった目がそっと俺を見た。


「昨夜、いろいろ聞き込みしてきた。順番に報告するから」

「うん……」


 スマホに並ぶ文字列を見下ろす。膝を見下ろしてじっとしている美優に向けて、俺は昨日わかったことを、ひとつずつ話しはじめた。



 ゆりと母親の喧嘩の話は、複数の客から聞いていた。ゆりの母が言う通り、夏休みに入ったとたん、喧嘩の頻度がどんどん上がっていったらしい。


 喧嘩の発端はゆりからのことが多かった。以前は母がゆりのバイトを咎めて喧嘩になることが多かったが、夏休みになってからは逆ばかりだったという。


 ゆりは家庭に強い不満を持っていて、接客中に愚痴をこぼすことも多々あった。金銭的に厳しいひとり親の家庭で、仕事ばかりの母は自分を顧みてくれず、強い孤独と虚しさ、居場所のなさやストレスを感じていたんじゃないか、というのが客たちの推測だ。


(でも……なんか変なんだよな)

 此倉街で聞いたゆりの情報には、なんだか妙な違和感がある。美優いわく、ゆりと母の間には、そこまでひどい亀裂などなかったらしいのだ。金銭的な厳しさや家で一人になることが多かったのは事実だが、それでゆりが荒むということは、今まで一度もなかったらしい。


 聞けば聞くほど疑問が浮かぶ。これらのエピソードは本当にあの〝小野塚ゆり〟のことなのだろうか。どうにもしっくりこない。


 ゆりについて語るおじさんたちは、なんというか、現実に起こったことじゃなく、テレビの向こうの物語について喋っているみたいだった。ゆりから聞いた個人的な話を、彼らはほとんど躊躇なく俺に教える。それこそ、前に見たドラマの内容を喋るみたいに。


(なんか──誰も、本当の小野塚を見ていない気がする)


 ゆりの話を聞き出したとき、そして俺がおじさんたちと話したとき。そのたびに、なんとも言えない違和感を覚える。


 俺の手を握ってべたべたした笑みを向ける、不特定多数の大人たち。あの瞬間、俺は自分が〝堂島敬斗〟じゃない、なにかぜんぜん別のものとして扱われているような気がするのだ。てっきり女装のせいだと思っていたが、もしかしたらそれは──ゆりも同じなのかもしれない。俺もゆりも、彼らの前ではなにか、自分と違うものになっているのだろうか。


(だけど……)

 俺たち、だけじゃない。俺にはあの店に来る大人も、なにか変な、俺の知っている大人とは違うものに見える。


 俺は大人というものは、みんな甕岡さんみたいに優しくて、強くて、真面目でしっかりした存在だと思っていた。どんなに頑張って背伸びしてもこちらを子供扱いしたまま、やさしい目で頭を撫でてくれるような。でも。


 何人目かのおじさんが言った言葉が、頭の中にまだこびりついている。


『オレはなあ、この街に、若い女のコを買いに来たんじゃないんだよ。本当は純粋で、でもどこか孤独を抱えてる──キミみたいな女のコと、恋をしに来てるんだ』


 その人は一ノ瀬の手を握って、夢見るような目でそう言った。よその子にも同じこと言っちゃ嫌ですよ、一ノ瀬はそう嬉しそうに笑い返した。でも彼はおじさんが帰ったあと、よくわからない静かな目で、ひたすら手を洗っていた。ざあざあと水音が響く洗い場で、俺は声もかけられなかった。


 ──別世界。そんな言葉が浮かぶ。

 あの街は俺の知らない文法で動いていて、ネオンの中を行き交う人はみんな、俺の知らない文脈を知っている。俺だけがなにもわからないまま、明るすぎる夜に迷い込んでしまった──そんな気がしていた。



「──ケイティー? もう終わり?」

「あ……」


 はっ、とした。目の前では美優が、不安をいっぱいに浮かべた目で俺を見つめている。そうだ、今はゆりのことだ。思案している場合じゃなかった。


「ごめん、あとこれだけ。小野塚とこそこそ喋ってた男についてだ」


 詳しい日付を聞き出してみれば、ゆりが男と喋っていたのはまさに、夏休みが始まったその日だった。ちょうど彼女が、母に対して喧嘩腰になりはじめたころ。


「……そいつと話したとき、きっとなにかあったんだ」

「その人……此倉街の人間、なんでしょ」

「たぶんな」


 白い髪以外の人相は聞き出せなかったが、夜の街の住人であることは間違いなさそうだった。


「とにかく、まずはそいつの情報を集めてみるよ」

 それが一番の近道だ。断言すると、美優は詰めていた息をそっと吐いた。ミルクティーみたいな色のカラコンが、そっと持ち上がって俺を見る。


「……ありがと、ケイティー。こんなに色々わかるなんて思わなかった。ゆりちって、うちにさえあんまり自分のこと喋らないし……」

「美優にも? そうなのか……」

「うん。好きなものとか、得意な科目とかは知ってるけど……家のこと話してくれたのもつい最近だし、うちら以外の友達とか、高校入る前のこととか、なんにも知らない……だからいくら聞かれても、行くあてなんか一つもわかんなくて……」


 ぐずっ、と美優が鼻をすすった。赤くなった目をこすって、どうしよう、とか細くつぶやく。


「ゆりちになんかあったら、やだよ。うちがもっと、ゆりちのこと知ってたらよかった」

「大丈夫だって。一ノ瀬に聞いた限りでは、トラブルや事件の情報も入ってきてない。俺たちがなんとかしてやる。安心して待ってろって、な?」


 目に涙を溜めて、こくん、とうなずく美優。とりあえず鞄から取り出したティッシュを渡して、俺はひそかに考え込んだ。

 美優には心配するなと言ったけれど。別れ際、一ノ瀬はこう言ったのだ。


『まだ事件性がないとは断言できない。聞き込みの感じ、小野塚さんの家出は、たしかに彼女自身の意志だとは思う。でも、家出した先で事件に巻き込まれるなんて、珍しくもなんともないから』


(……早く連れ戻さないと)

 口元を引き結ぶ。机の上を見下ろした。ぎゅっ、と手を握りしめる。


「とにかく。調査は続ける。できるだけ早く、小野塚の居場所を突き止めるから」

「うん、ありがとう……」


 力のない美優の声。そのとき、がらっ、と部室のドアが開く音がした。美優がはっと顔を上げ、二人してそちらを見る。


「やあ。二人とも、元気かな」

「甕岡さん……」


 いつものようにカメラを構えて、でも、甕岡の表情はいつもより陰っていた。どうやら甕岡にも、ゆりの家出の情報は渡っているらしい。


 ゆっくりと歩み寄り、彼は美優の隣に座った。美優がそっと目を伏せる。此倉街の話は、もうできなかった。真面目で優しく、誠実な甕岡のことだ。俺がこんなことをしているとバレれば、絶対に危ないと止められるに決まっている。そしてきっとそれは正しい。


 けれど他に手段がないのだ。ゆりの行方の手がかりは、此倉街にある可能性がいちばん高かった。それでも、大人に相談はできない。ゆりの秘密は誰にも言えないからだ。


 たとえゆりが無事に帰ってきたとして、知らない間に自分の秘密が大人にバレてしまっていたら。そんなの嫌に決まっている。下手をすれば、ショックでもう一度家出してしまうかもしれない。だからやっぱり、俺が秘密で探すしかないのだ。


 思うところはいくらでもある。でも、危ないバイトから足を洗わせるのは、ゆりが帰ってきてから、俺と美優でやればいい。今はとにかく、秘密を守ったまま、ゆりを無事に家へと帰すのが最優先だ。


 一ノ瀬とは、今日も会う約束をしていた。ゲート前で待ち合わせて、手近なカラオケで着替えて聞き込みをする予定だ。例の男について、なにか収穫があればいいのだが。

 膝頭を見つめて考え込んでいると、甕岡が小さく息を吐いた。


「……心配だね。小野塚さん」

「うん……」


 美優が小さくうなずく。その声があんまりにもか細いせいだろう。甕岡はそっとカメラを机に置いた。軽く身を乗り出して、美優の顔を覗き込む。


「僕にできることがあったら、いつでも頼ってくれていいからね。ただ不安を紛らわすとかでも構わないから。ね?」


 はっきりした、安心させるような口調。真剣な表情は、かつて俺が慕った『優しくて頼りになる、憧れのお兄ちゃん』そのものだった。


(やっぱり、さすがカメ兄だなあ……)

 もう恥ずかしくて言えなくなった呼び名を心の中で口にして、じん、と胸のあたりがあたたかくなる。ちら、と甕岡の瞳が俺を見て、やわらかく微笑んだ。まるで大丈夫だよ、と言われているようだった。その目がふたたび美優を見つめる。


「美優ちゃんも、元気出して」

 いつもカメラを扱う大きな手が、そっと美優の肩に乗った。すり、とかすかに肩をさする仕草。美優が、甕岡の手に自分の手を重ねた。肩から手を外させて、ゆっくりと下ろす。カラコンの視線が持ち上がって、物言いたげな瞳が甕岡を見た。


(……あれ?)

 なんだろう。なんだか──妙な空気を感じる。


 俺が目をぱちぱちさせていると、甕岡はふっと笑って立ち上がった。大きな手がカメラをさらって、困ったような笑み。


「今日は撮影はお休みするよ。二人とも、あんまり無理しないで、早く帰るんだよ。部活動は控えめに」

「あ、はい」

「美優ちゃんも。ちゃんと寝てね」

「……うん」


 じゃあ、と軽く手を振って、甕岡は部室を出ていった。からり、と扉が閉じる音とともに、静寂がやってくる。


(うーん……なんだ……?)

 俺はまださっきの空気感が気になって、ひとりで首をかしげていた。だが結論が出るより先に、美優が小さくつぶやいた。


「……もしかして、気付いちゃった?」

「気付いたって、なにが」


 美優は口を開きかけて、だがすぐに閉じてしまった。薄い色の瞳をうろうろとさまよわせ、はー、と両手が口元を覆う。なんとなく目元が赤い気がする。


「えっと……うーんとね。その」

「美優?」


 美優はもごもごと口ごもっていたが、ようやく意を決したのか、上目遣いにそろりとこちらを見上げた。


「あの、ね。カメぴとうち、実は……付き合ってるの」

「えっ? あ、あー……! そういう!」


 なるほど、さっきの妙な空気はそういうことか。納得した。ぽん、と手を鳴らす俺に、美優は少し恥ずかしそうに言った。


「カメぴね、すごくうちのこと大事にしてくれてるの。優しくて、紳士的で、大人で。ほんとに、大切にしてくれてる」


 そうはにかむ美優は、いつもの派手で明るいギャルではなく、ただの恋する女の子に見えた。なんとなく胸の辺りがあたたかくなる。美優はまだ照れたような顔をしていた。


「だからその……秘密にしてね?」


 親や先生にバレたらまずいから、と言う。なるほどたしかに、その通りだ。高校生が年上の大人と付き合う。そのことに対する周囲の目はひどく冷たい。

 怒らなくてもいいのにね、と美優はくちびるを尖らせた。


「ほんとに優しいんだから。でも……親や先生はきっと、わかってくれないと思う。カメぴ、うちが駄々こねるたび、いつも言うんだよ。『そういうことは、大人になるまで取っておこうね』って。紳士っていうか……優しいんだよね」

「そっか……甕岡さんらしいな」


 憧れの優しいお兄ちゃんと、友達が付き合っている。その事実は多少なりと俺を驚かせたが、不快にはさせなかった。美優がここまで言うのだ。彼女は本当に、甕岡に大切にされているのだろう。


 甕岡の話をする美優は、やっと頬のこわばりが抜けて、どこか素直な笑みを浮かべていた。少しでも以前の朗らかさが戻ってきたようで、よかった、と思う。


「甕岡さんの顔見て、少しは安心できたか?」

「ん……そうかも」

「そっか。俺も小野塚を連れ戻すの、がんばるから。どうしても不安だったら、甕岡さんに連絡して、慰めてもらえよ」

「うん、わかった。あとで家、行ってみる」


 美優がほっとしたようにうなずく。これでたぶん、美優のメンタルは大丈夫だろう。

 派手なカバーのついたスマホを取り出して、美優は甕岡にメッセージを送っている。画面を見つめるカラコンの瞳は、さっきまでの涙とは違うもので赤くうるんでいた。桃色に上気した頬は、完全に恋する乙女のそれだ。


(……よかったな、美優)

 安堵と微笑ましさで、俺はそっと目を細める。胸の奥があたたかくなった。


 雲が途切れたのだろう、窓越しにひときわ強い日光が差し込む。机に置かれた白いVRゴーグルがまばゆく光を反射して、エアコンが強い風を吹き出しはじめた。



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