──8── 「女の子だって人間だろ」

 俺の困惑を読み取ったのだろう、少女は顔を背けて、小さく舌打ちをした。


「あんたは知らないだろうけどさ。あの〝天使〟はね。暇さえあればSNSチェックして、この街に落ちてくる女の子を探して、自分から声かけてんの」

「声……? かけて、何するの」

「〝此倉街の天使〟は、ほとんどの店に顔が利くから。それぞれの子に合う店紹介して、マージンもらってる」

「まー……じん?」

「紹介料」

「な……っ」


 ──そんなの、身売りの仲介人じゃないか。


 そういえば、さっき助けてもらったとき、あの怖い勧誘の男が言っていた。一ノ瀬の紹介する女の子はみんないい子で良く稼ぐ、って。それは──こういうことだったのか。


 思わず絶句した俺をよそに、少女はさっ、と辺りを見回した。狭いトイレの手洗い場だ、当然ほかに人はいない。

 彼女は一歩俺に身を寄せると、声のトーンを低くした。


「そう。〝此倉街の天使〟は女の子を売りさばく仲介人。大人はみんな──そう思ってる」

 大人は、のところを強調する。含みのある口調に、俺はかすかに眉を持ち上げた。

「でもね。あの人、あたしに言ったよ。こんな街に来るのはやめろって、真剣な顔して。けどあたし、どうしても我慢できなかったから。無理言って、ここ紹介してもらったの。ここならまだ安全だって」


 少女はかすかに下を向いて、胸元をぎゅっと握った。


「誰にも言ってないけど。あたしの紹介マージン、〝天使〟は全額あたしに渡してるの。だから〝天使〟の稼ぎはゼロ。たぶん、他の女の子にも同じことしてる。しかもあの人、困ったり辞めたくなったら必ず相談してねって、何度もあたしに念押しして──」


 そのとき。唐突に、キイ、とトイレの扉が開いた。びくっ、と少女が身を固くする。そろそろと、俺と少女は振り返った。

 果たして、ドアの向こうには、見覚えのある清楚な人影が立っていた。一ノ瀬。ほっ、と詰めていた息を吐く。


「もう、なにやってるの。次のお客さん待ってるよ」

「あ、いち──アンジェ」


 危ない。うっかり本名を呼ぶところだった。一ノ瀬は目を細めると、呆れたように腕組みした。少女が、ぺこりと一ノ瀬に頭を下げる。そのまま、彼女は小さくこちらを睨み上げた。


「あんたさ──犬だね。生きてるだけ」

「な……」


 吐き捨てるように言うと、少女は一ノ瀬の立つ扉の方へ歩いていく。薄紫のドアに手をかけて、韓国風の制服が、ちら、と肩越しに振り返った。


「……ここは〝天使〟に免じて許したげる」


 ぼそっ、とつぶやくと、少女は扉の向こうに出ていった。韓国風の後ろ姿を隠すように、ぱたん、とドアが閉まる。


 それきり、しいん、と静寂。俺は半開きだった口を引き締めて、なんだよ、と苦々しくつぶやいた。犬、なんて捨て台詞を吐かれる覚えはない。だが。


「……おい敬斗。彼女になに言った」


 ぎろりと俺を睨み付ける、一ノ瀬の目が怖かった。ずい、と歩み寄られる。思わず一歩後ろに下がった。とん、と腰の後ろに洗面台がぶつかって、俺は別に、と弁明する。


「ただ、身売りみたいなことはやめろって言っただけだ。だってあの子、両親も揃っててお金もあって、不自由なんかなんもしてねえだろ。バカみたいな真似してないで、ちゃんと家に帰ればいいのにって思っただけで……俺、間違ったことなんかなんにも言ってない」


 懸命に言葉を連ねる。けれど俺がなにか言うたびに、一ノ瀬はみるみる視線を冷たくしていった。うっすらと細まった目が俺を見据えて、あのさ、とひどく冷静な声。


「敬斗。おまえが言ってるのは、『自分が間違ってないと思ってること』でしかないよ」

「な、なんだよ、それ……」


 だって俺は、おかしいことなんて、なにも。

 けれど言葉は口から出なかった。ただ思い返されるのは少女の睨むような眼差しと、あんた犬だね、という言葉。


 ぎゅう、と手を握った。くちびるを噛んで下を向く。腹の底が、なんだか無性にもやもやした。喉の奥から、むりやり言葉を絞り出す。


「だって俺……おかしいこと、言ってない。このままじゃあの子、売春させられるかもしれない。なんかできることあったら、してやりたい。金はいらないかもしれないけど、行く場所とか、食べ物とか、友達とか、いるんだったら俺だって力に……」

「……っ」


 小さく息を呑む音がした。そろそろと顔を上げると、一ノ瀬がよくわからない表情で俺を見つめている。なに、と問いかけようとして、けれど一ノ瀬が動くほうが先だった。


 何度か見た、呆れたように額に手を当てる仕草。はー、と肩を落としてため息をこぼして、一ノ瀬がつぶやく。


「……敬斗はシンプルでいいね。素直は取り柄だ」


 そう言って、ゆっくりと顔を上げた一ノ瀬の表情には、もう苛立ちは見られなかった。ただなんとも言えない、呆れたような、それでいて許すような、複雑な色があるだけだ。


「えっと……なんか、ごめん。お客さん待ってんだっけ。戻るよ」

「待って敬斗。ファンデ浮いてる」


 すぐ直すからちょっとじっとしてな、と言われ、俺は黙って言われるがままにした。鼻や頬にあぶらとり紙を押し当てられて、ちょいちょい、と粉をはたかれる。


 すぐ終わるかと思ったメイク直しは、思ったよりも時間がかかった。ちら、と視線を横に滑らせる。鏡には、ぎこちないギャルの格好をした俺と、それを整える美しい一ノ瀬が映っていた。


「俺が女だったらさあ」

「……ん?」

「もっと簡単に綺麗になったのに。手間かけてごめん」

「は?」


 一ノ瀬が顔を上げる。きょとん、とした美少女顔に向けて、俺はだって、とつぶやいた。


「女の子はヒゲもないし、肌もきれいだし、色も白くて柔らかくてかわいくてさ。こんな手間暇かけなくったって、すぐ綺麗になれるだろ。なんかごめんな」


 うつむいて、ぶつぶつと弱音を吐く。だが一ノ瀬の返事がない。てっきり、バカとかしっかりしろとか、すぐさま叱責が飛ぶものと思っていたのに。


 なんだろう、と顔を上げる。一ノ瀬はメイク直しの手を止めて、ものすごい顔で俺を見つめていた。ぽつり、と静かな声。


「……おまえ、女の子をなんだと思ってんの」

 首をかしげる。なに、って。

「女の子は女の子だろ?」


 かわいくて儚くて柔らかくて、きれいで素敵な、男とはぜんぜん違う、俺たちが守ってあげるべき、特別な。


 一ノ瀬の美しい目元が、良く見ないとわからないほど、ほんのわずかに歪む。可憐な顔立ちにどこか痛いような色をにじませて、彼はとても静かな、きれいな声で。


「──女の子だって人間だろ」


 しん、とした口調だった。なにか苦くて切ないものを押し殺して、感情を無理やり噛みしめるみたいな声をしていた。

(一ノ瀬……?)

 なにを言ってるんだろう。女の子は人間だ。当たり前のことだ。むしろそれ以外のなんだと言うんだろう。


「あ──」

 当たり前だろ。そう言おうとして、言葉がうまく出なかった。一ノ瀬の表情があまりにも静かで、なにか俺にはわからないものを湛えていて、俺がなにを言ってもうまく届かないような気がしたからだ。


 一ノ瀬が、静かに一度目を伏せる。そして、すっと顔を上げたときにはもう、あの耐えるような表情は、すっかりなくなっていた。


「あと目元だけ直したら終わるから。目、閉じて」

「え? あ、ああ……」

「粉入るから開けるなよ」


 とんとん、と指がまぶたを叩いていく。その感触を感じながら、俺はさっきの一ノ瀬の表情や、少女の言葉を思い出していた。


 女の子たちを売り飛ばすふりをしていた一ノ瀬のこと。こんな街には来るなと言いながら、彼は自分から女の子に声をかけて、お店を紹介して回っている。辞めたければ力になると口にしながら、彼女らを積極的に此倉街から追い出すことはしていない。


 一ノ瀬はなにがしたくて、どうしてこんなことをしているのだろう。ちっともわからない。


 閉じたまぶたの裏側で、ぐるぐると言葉が回った。

 生きるだけなら犬でもできる。あんた犬だね、生きてるだけ。おまえが言ってるのは、自分は間違ってないと思ってることでしかない。敬斗はシンプルでいいね。女の子をなんだと思ってんの。女の子だって人間だろ。


(っ……なんだよ、それ……わかんねえよ)

 この街の誰もがわかっているらしい〝なにか〟を、俺だけがちっともわかっていない気になる。もどかしい苛立ちが、じわじわと胸の内を焼いていく。


 もういいよ、と言われて目を開けた。狭っ苦しいトイレの安い光が目を焼いて、一ノ瀬が、少し困ったような顔で俺を見つめていた。




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