第10話

 ※


 学校が終わって、その足で彼の家に行くのが日課になった。

 彼はいつも笑顔で迎えてくれ、一緒にゲームをしたり、レンタルビデオ屋でDVDを借りてきて映画を観たりした。

 彼の家で遊び、帰るのが遅くなっても僕の母は僕に関心を持たず、何も言わなかった。それは母がその時、新しい若い彼氏に夢中になっていたからで、むしろ僕の存在は家では煙たがれた。その母の性質に僕は感謝をした。

 僕は初め、通報されないように、誰かに僕のことを言いつけられないようにという打算的な理由を持って彼の家に遊びに行っていたが、その理由は次第に薄れていき、僕は居心地の良さに甘え、彼の家に居着くようになった。

 しかし、彼と遊ぶ中で、僕は幸せな子どもだとアピールするのを忘れなかった。優しい母に育てられ、家に帰ると好物を沢山作って待っていてくれる。お金だっていっぱいあって、母は新しい、温かい服を沢山買ってくれるけれど、僕はあえてそれを着ていない。だって、僕は物を大事にする主義だし、今来ている服はお気に入りだから、と。

 そんな幻想を語っても、母からの暴力の証を隠し通すのは無理があった。

 袖から覗く痣、遅くまで彼の家に居ても何も言ってこない母親。僕は言い訳をする。学校で友達とサッカーをして転んだ、彼のことは母親に説明してあり、すごくいい人だと伝えてある。もちろん、そんな子どもの話を彼は鵜呑みにはしなかった。

 僕はその日も学校から帰って彼の家に向かった。ドアには鍵がかかっていたが、僕は郵便ポストの中から隠してある鍵を取り出して、中に入った。彼の帰りが遅くなる時はそのように自由に入っていいと彼から言われていた。

 僕はゲームを起動し、昨日の続きを始めた。魔王を倒すことが目的のRPG。敵を倒し、経験値を得る。その繰り返し。

 僕がゲームをやり始めてしばらく後に彼は帰ってきた。

「よお、コロッケ買ってきたんだけど食うか」

 僕は頷き、彼から紙の包装紙に包まれたコロッケを受け取る。

 コロッケはまだ温かく、一口齧ると衣のさくさく感とじゃがいもの甘みが口に拡がった。

 彼も僕の横に座り、コロッケを同じように食べながら、テレビに映し出されているゲームの画面を見ていた。

「お、もうこんなところまで行ったのか。あの塔にいたボスは倒した?」

「倒した」

「強かったろ。状態異常魔法かけてくるから厄介なんだよな」

 彼は片手でコントローラーを操作する。

「あ、マコトのレベル上がってるじゃん」

 マコトはそのゲームの主人公の名前だった。マコトのレベルは36になっていた。そのレベルになるまでにどのくらいの数の敵を倒しただろう。

 彼のその日の会話はどこか落ち着かないような感じがして、僕をじっと見て、僕がその視線に気がつくと目を逸らすといった不自然な態度だった。

 僕はその彼の態度に気がつかないフリをして、いつも通りに遊び、時計を見て、そろそろ帰ろうとした時、「真琴」と呼び止められた。

 僕は彼の方を向く。

 彼は僕の顔を見て、目を逸らし、また僕の方を向いて、言いづらそうに口を開いた。

「なあ、真琴。お母さんと別れて生活をするってどう思う?」

 その言葉に僕の心は急に質量を持って重くなる。

 彼が児童相談所に僕のことを通報しようとしていることは想像ついた。

「よくわかんない」

 僕はそう答えて、彼の家を出た。

 彼が僕のことを通報するのは時間の問題で、それを母に知られるのが僕にはどうしようもなく恐ろしかった。

 だから、僕は彼に死んでほしいと願った。いや、それは言い過ぎで、もしも彼が今死んだら通報されることはないだろうというあくまでも仮の話を想像しただけだったかもしれない。

 もちろん、彼のことは好きで、本気で死んでほしいと思ったわけではなかった。むしろ、死んでほしくなんてなかった。ただ、一度でも、一瞬でも、彼が死ぬことを僕は想像した。

 次の日、いつも通り彼の家に行くと、その日も鍵は開いていなかった。僕は郵便ポストから鍵を取りだして中に入り、ゲームを進めた。その日、マコトのレベルは38に上がり、とうとう僕は魔王を倒すことができた。彼は結局、帰ってこなかった。

 僕は鍵を閉め、その鍵を郵便ポストに入れ、家に帰った。

 翌日の朝、たれ流されているテレビのニュースで僕は彼が死んだことを知る。

 煙草をポイ捨てをした不良に注意をして、逆上した不良たちに死ぬまで暴行を加えられたらしい。

 犯人は殆どが未成年で、暴行を加えた中に一人だけ成人をした男がいたらしく、彼の名前と顔だけが報道された。

 その男はいかにも不良という感じで、短い金髪で、目つきは悪く、そばかすが目立った。その写真を見ただけで僕は彼のことを頭が悪そうだと思った。そして、この男の仲間たちも似たり寄ったりだろうと思った。

 死んだ彼はそこそこ有名な大学に通っていて、頭が良かった。一人夜の公園で遊んでいた僕を助けるくらい正義感が強く、優しい人だった。

 そんな人が呆気なく死んだ。

 人間に価値をつけるのは間違ってる。みんなそれぞれ良さがある。

 道徳的にはそういうけれど、やっぱり人間の価値というのは存在していて、彼は人間的価値が高く、彼を殺した人達は価値が低いと僕は思った。彼は彼よりもきっと人間としての価値が遥かに低い男たちに簡単に殺された。僕はそう思った。

 彼は正義感が強いと言っても、不良のポイ捨てをいちいち注意するような人ではなかったと思う。ただ、僕のことを助けようとしていて、だからこそその時、その正義感は強くなってしまったんじゃないか。そうだとすると、彼の死の原因は僕にもあるのかもしれなかった。

 ただ何にせよ、どれだけいい人だろうが、悪い人だろうが、理不尽な暴力で呆気なく死ぬことを僕は知る。

 世界は暴力で回っていることを僕は知る。


 ※


 インターホンの音で目が覚める。

 僕は時計を見て、再び夢の世界に向かおうとしたが、2度目のインターホンの音にそれは邪魔される。

 僕はゆっくりと身体を起こし、インターホンのモニターを見る。そして僕はため息をつき、簡単に身支度を整える。その間にもインターホンの音は鳴る。

 ようやく、扉を開けた時、そこには数人の警察が立っていた。

「佐藤真琴さんですね。齋藤岳大さんに暴行をし、死に至らせた容疑で逮捕状がでています」

 その日はいい天気で、警官の後ろに広がる空はどこまでも青かった。

 心地の良い風が僕の頬を優しく撫でた。

 僕は拳を握りしめる。警察の顔を見る。僕はその警察官に殴り掛かるが、それは呆気なく躱され、僕は地面に組み伏せられる。顎を地面に強かに打つ。

 世界は暴力で回っている。

 現にそうじゃないか。警官は暴力で僕を組み伏せたし、どんなに有能な人でもひとつの暴力で死ぬ。世界は核兵器という巨大な暴力を見せつけることで平和を謳っている。

 顔を上げるとアエーシェマが立っていて、悲しげな目を僕に向ける。

 肯定をしてくれ。アエーシェマ。

 僕は願う。

 お前は正しいと一言、一言でいいから認めて欲しい。

 しかし、アエーシェマは何も言わない。

 いや、僕は知っていた。心の奥底で彼がアエーシェマではないことを僕は知っていた。

 風が吹いて髪が舞い上がり、彼の顔がはっきり見えた。

 それは僕だった。

 心の奥ではわかっていても、それでも認めたくなかった。

「午前7時14分。容疑者確保!」

 僕は彼のことをずっと昔から知っていて、それでも認めたくないから見ないふりをしていた。よっちからアエーシェマの話を聞いて、彼のことをアエーシェマだと思い込もうとした。

 しかし、やはり違う。

 彼は僕だ。僕自身だ。

 僕は僕自身を認めるべきだった。

 その事を自覚すると、彼は寂しげに微笑んで消え、コンクリートの冷たさだけが残る。

 彼のことをもっと前から認めていれば、僕は暴力に囚われず幸せに暮らせていただろうか。

 瑠香のことを心から愛し、渉や高橋、よっちを親友と呼べるような、そんな未来があっただろうか。いや、たぶんそれは無理で、暴力を嫌っていた幼い頃の僕は結局暴力を信じるようになるし、それは間違いなんじゃないかと心の奥底ではずっと思い続ける。きっとそれは避けられなくて、それでも僕は相反するふたつを胸に幸せを望む。幸せに暮らすことを望む。

「幸せに」

 僕は呟く。

 その言葉の甘みを噛み締める。

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