第9話

 僕は瑠香と向かい合って座っていた。

 そこは普段行き慣れない少し高めのフレンチレストランで僕は居心地悪く感じる。

 誘ったのは瑠香の方からで、僕は瑠香の表情を盗み見るが、その意図は未だに読み取れていなかった。

 ワインを一口舐める。味はあまり分からない。

「ねえ、今日は―――」

 言いかけたが、彼女が顔を窓の方に向けて眼下に広がる夜景眺めていることに気がつき、口をつぐむ。いや、もしかすると夜景ではなく、ガラスに映る僕らを見ていたのかもしれなかった。

「なにか言った?」

 瑠香は僕の方に視線を移動させる。

「いや。可愛いネックレスだと思って。そんなの持ってたっけ」

 彼女はネックレスに手を添え、薄く微笑む。

「そうでしょ。昔プレゼントに貰ったの」

 話す彼女はいつも通りで、よっちや早苗先輩の言うおかしなことは何も起こっていないように見えた。しかし、僕は訊かない訳にはいかず、口を開く。

「この前さ」

「ああ、うん。水族館。楽しかったね。連れて行ってくれてありがと」

「うん、楽しかった。ああ、でもそうじゃなくてさ。その前の日、水曜日のことで。あの日、急に僕の部屋に来たけど何かあった? 瑠香がアポ無しで来るのなんて珍しかったから」

「あー、ごめんね。やっぱり急に行って迷惑だったよね。今度からちゃんと事前に連絡するから」

「そうじゃない。そうじゃなくって、急に来た理由だよ。なにかあったんでしょ」

 彼女は少し目を伏せる。

「なにもないよ」

 声も少し沈んでいて、その「なにもない」というのが嘘だとわかる。

「……話したくないこと? 悩んでることがあったら俺が力になるから。いや、力にはなれないかもしれないけど、一緒に悩んであげることは出来る。なんでもいいから俺に話してみて」

 いかにも心配しているように見せる。彼女のことを真に想っているように。実際にはそうでなかったとしても。

 彼女の視線はテーブルから徐々に上がり、僕の顔で止まる。

「その顔の傷。やっぱりこの店に合わないね」

 僕は窓を見て、反射する自分の顔を見る。高級感溢れる店内に綺麗に着飾った男女。その中に一人、青あざをつけた男がいて、確かに僕は浮いていた。

 この顔の傷はやはり、転んだ時についたものと説明していた。

「ねえ、早苗に言われたの?」

 急に凛とした鋭い声で瑠香は言う。図星をつかれ、僕は戸惑う。平静を装うために静かに深呼吸をする。

「……どうして?」

「どうして」

 彼女は繰り返す。

「それは水曜日の夜、あなたが気がついていなかったから。早苗に私の様子が変だったから訊いておいて、とでも言われたんじゃない? 違う?」

 僕は答えない。

「教えてあげる。

 仕事で私の教育係をしてくれてた先輩がいてね。その先輩は優しくて、私のミスも全力で庇ってくれるし、仕事も出来るし尊敬してた。でもね。彼はボディタッチが多くて、もしかしたらもともとそういう人なのかもしれないけれど、肩や手に触れることが多くて、もしかしたら彼は私に気があるんじゃないかと思い始めた。その時は自惚れかな、と思ったけど、さりげなくボディタッチは避けるようにしたし、飲みに誘われても必ず3人以上ならって条件をつけて彼氏の話、そう、君の話もした。

 それで、私にはその気はないってアピールしていて、先輩にも伝わってると思ってた。

 でも、水曜日。その日は会議があって、私と先輩が会議室で準備をしていた。私が資料の準備を終えた時に、唐突に抱きしめられて、キスをされた。咄嗟に突き飛ばして「やめてください、何するんですか」って言ったら「好きなんだ」って「どうしようもなく君のことが好きなんだ」って。

 私は怖くなって会社から飛び出して君の家に行った。不安で、怖くて、汚された私を上書きして欲しかった。それだけ」

 彼女はすっきりしたように投げやりに言い終わり、ワインを飲んだ。

 僕は何を言うべきかわからない。その先輩に対して怒るべきなのか、彼女のことを心配するべきなのか、彼女の異変に気が付かなかったことを詫びるべきなのか、そのどれも、僕の本心ではない。

 スマホが鳴った。

 僕のポケットから愉快な着信音が鳴り続けていて、二人の空間を破壊する。

「出ないの」

「ああ、うん。ごめん。すぐ消すから」

 僕がスマホをポケットから取り出す。画面には玲の名前が表示されている。

「出なよ」

「ごめん。消すって」

「出て」

 強い口調で瑠香は言う。僕は瑠香の顔を見て、その後、画面の玲の名前を見て、諦めたように通話ボタンをタップする。

「あ、真琴くん? よかった。繋がって。LINEのメッセージもくれないから、前誘ってくれたのに断っちゃったの怒ってるかなと思って」

 玲の明るい声がスマホから流れる。

「ああ、怒ってないよ。怒ってない。ごめん。ちょっと忙しくてばたばたしちゃってて」

 僕は瑠香の顔を見ながらそう答える。瑠香の表情は読み取れない。

「あ、そうなんだ。前言ったけど、月曜日だったら私空いてるからどこか行かない? それとも月曜日だとまだ忙しいのかな? もし忙しく―――」

「その子が今の浮気相手?」

 玲の声と瑠香の声が被る。

「え」

 電話越しから聞こえる玲の声は途端に意味を持たない音に変わる。

「確か、玲ちゃん、だっけ。気がついてないとでも思った?」

 スマホが音を立てて床に落ちる。

「浮気してるのは知ってた。それでも私は愛されてると思ってた。

 でも、あなたは気がつかない。水曜日の私の様子が変だったことも、このネックレスがあなたが昔くれたものだってことも。

 あなたは私を愛していない。そうでしょ?」

 そんなことはない、と言おうとするが、喉が舌が張り付いて言葉が出てこない。

「ねえ、あなたにとって私は何?」

 僕は店内が静かなことに気がつく。夜景が綺麗なことに気がつく。目の前の、目を潤ませて僕を睨む彼女が綺麗なことに気がつく。

「都合のいい遊び相手? ただの性欲処理の道具? それともあなたにとってのアクセサリー?」

 途端に頬に衝撃がある。ビンタをされたと少し遅れて気がつく。

「最低」

 彼女はバッグを持って、僕を置いて足早に店内を後にする。

 彼女の背を見送ったあとで、スマホを拾うと通話は既に切れていた。


 僕がその店を出たのは彼女が飛び出してからしばらく経ったあとのことで、彼女を追いかけようなどとは思わなかった。

 首筋に冷たいものを感じ、雨かと思って空を見上げると、少し早めの雪がそろそろと降っていた。

 大きめの電光掲示板ではニュースが流れていて、アナウンサーが真面目な表情で原稿を読み上げる。

「W大学で教授をしていた齋藤岳大さんが今日未明、息を引き取りました。齋藤岳大さんは16日に帰宅途中、何者かに暴行され、意識不明となっていました。警察は容疑を暴行罪から傷害致死罪に切り替え捜査を続ける模様です」

 掲示板には防犯カメラの映像が、コンビニから出ていく、パーカーを着てマスクをつけた僕の姿が映し出される。

 次のニュースです。と画面が切り替わったのを見て、僕は歩き出す。

 アエーシェマはやはり僕のそばに居る。なにも言わずに僕を見守る。

 僕は雪が舞う夜の街をゆっくりと歩く。

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