第6話
大学の図書館でよっちを見かけた時、僕は彼に話しかけるか少し迷った。
彼はひとり、大きなテーブルの脇に数冊の本を積み上げて、時折、その本をぱらぱらと捲りながらノートパソコンのキーボードを打っていた。
僕は特に興味もない、哲学の本がぎっしり詰まっている本棚の前でしばしうろついた後、結局、話しかけた。
よっちは前の席に座った僕を一瞥すると「お前か」と言い、再び目線をノートパソコンの画面に移す。
「なにしてんの」
「課題」
「なんの?」
「宗教学」
「お前そんなの取ってたの?」
「おう」
「お前、なんか宗教入ってたっけ」
彼はキーボードをカタカタと叩き、その後、顔を上げる。
「え?」
「いや、だから宗教。なんか入信してたっけって」
「してない」
「じゃあ、なんでそんなのとってんの?」
よっちはキーボードを叩く手を止め、目頭を押さえて、ノートパソコンの画面を少しだけ閉じる。息をふーっと吐く。
「日本人ってさ。お前のように宗教になにかしら偏見持ってるよな。たぶん、やばいカルト宗教のイメージなんだろ。高い壺買わされたり、女の信者は教祖のちんこしゃぶらなきゃいけない、みたいな」
少し考えて僕は答える。
「まあ、そうかも」
「そうじゃなくて、宗教っていうのは俺はひとつの文化だと思うんだよ。民族衣装とか日本で言うと漫画やアニメみたいな。人の営みの上にそれがあって、人の思考や想いや願いの集合体なんだ。たぶん」
「それ、宗教学の先生が言ってたの」
「いや、俺が勝手に言ってるだけ」
「でも実際に神なんていないだろ。宗教で言ってることは全部フィクションで、信じる、信じないとかって意味の無いことだと思うけど」
「それが、そうも言いきれない。人間の脳はもしかすると昔と今では変化していて、昔の人の考え方や認知機能が今とは違った可能性もある。だから、脳の認知能力が今とは違っていて、昔は神の奇跡も本当に彼らは見えていたのかもしれない」
「集団幻覚ってことか?」
「さあね。幻覚じゃなく、本当に神の奇跡は実在していて、現代の人間の脳はその神の奇跡を、本当は実在しているのに認知出来ないように進化してしまったのかもしれない。まあいずれにしても、宇宙について考えた時、円周率について考えた時、この世界のかたちについて考えた時、それらを科学的な観点からアプローチをしても神の仕業としか思えないような結果が出ることは度々ある。見えないから、体験できないからと言った理由だけで神はいないというのは短慮だよ」
「へえ」
僕は簡素に相槌を打ち、見えない神を想像する。その形而上の神は何を考え、何を想うか。いや、そもそも神は考えることも、想うこともしないのかもしれない。神は思考の外側に、より多次元な世界に、宇宙の果てに存在していて、人を、生物を、万物を超越する。
彼の横に積んである本に目をやる。
「それで? 今は宗教の何について調べてんの?」
「ゾロアスター教。紀元前古代ペルシャ発祥の。それの神について調べてる」
「聞いたことない」
「本当か。結構有名だぞ。
例えば善神は人類の守護神スプンタ・マンユとか水の神ハルワタートとかアシャ・ワヒシュタは聖なる火の神。
悪神だとアンラ・マンユ。こいつは病気やら害毒を創造する大魔王。あと暴力の神、アエーシェマ。あとこれは少し面白いぞ。売春婦を支配する悪魔だ。ジャヒーって言うんだが、こいつが女に生理の苦しみを与えたとされてる。
一人も聞いた事ないか?」
僕は頷く。
「まあ、そうか。日本では宗教はご法度というか、なんか触れづらい空気あるもんな。知らないのも仕方がない。まあ、でも暇なら聖書くらいは読んでみたらいい。教養がつくし、読み物としてもなかなかに面白い」
「アエーシェマ」
「ん?」
「アエーシェマ、だったっけ。暴力の神」
「ああ、そうだ。見た目も凶暴って感じなんだよ。あ、ほら。こんな感じ」
向けられた画面を見ると、全身毛むくじゃらで、頭には長い角を生やし、血まみれの武器を持った化け物の絵が表示されていた。
「こいつがどうかしたか?」
「ああ、いやなんでもない」
僕は考える。
もしも、よっちの言うように神が本当に実在していて、その神が世界を動かしているのだとしたら、それはスプンタ・マンユでもハルワタートでも無いと思った。今、この世界を動かしているのは暴力の神アエーシェマだ。
僕はアエーシェマに近づきたいと思う。彼と友人になりたいと思った。
「そういえば、お前、昨日学校来てたか? 木曜日はいつも食堂で会うのに、見かけなかったから」
「いや、行ってない。彼女と水族館行ってた」
「まじか。あれ、吉原先輩って今社会人だろ? 昨日休みだったのか」
「水曜日の夜、急に俺ん家に来て、木曜日は年休取っちゃったって言うから水族館に」
「今日は?」
「仕事行ったよ。やらなきゃいけない仕事あるからって」
よっちは少し考え込む素振りを見せ、言う。
「なんか、おかしくないか。吉原先輩ってそんな急に人の家に押しかけたりする人だったか? いや、俺はそんなに関わりないからわからないけど、なんか俺のイメージと違って。なんかあったんじゃないか」
「なにかって?」
「わからないけど。落ち込んでる素振りとかなかった?」
僕は思い返す。しかし、昨日、彼女がどんな顔をしていたのか思い出せない。
「まあ、お前らのことだし。勝手にすればいいと思うけど、お前、女遊びも程々にしろよ。あんな美人な彼女持っておきながら。もしかしたらお前の女遊びの噂を聞きつけて来た可能性もあるじゃねぇか」
僕はその可能性について考える。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。いくら考えても答えは出ず、意味が無いことに気づき、考えるのをやめる。
「うん。まあ気をつけるよ」
もともと特に話したいこともなく、強いて言えばその場を去る前に合コンのことを話題に出そうとしたが、やめておいた。
少なくとも今話していた態度を見るに、よっちは合コンの事件について僕に対しては怒っていないようで、もしかしたら渉と高橋のことは根に持っているかもしれないけれど、その二人とよっちの仲がどうなろうが、果たして僕にはどうでもいいことだった。
軽く別れを告げ、僕は立ち上がる。
帰り際に振り向くと、よっちは再びノートパソコンに向かい合ってキーボードを叩いていた。
図書館の出口まで向かう途中、よっちのように本を積んで、ノートパソコンを開いている学生はちらほら見かけた。出口付近の窓に面している席には女学生が二人並んで座っていて、二人ともお揃いの、生協で買わされたノートパソコンを開いて、時折小声でなにやら相談をしながらキーボードを叩いていた。
片方が黒髪のボブで白いニットの上着を着ている。もう片方が金髪のかき上げバングでオフショルダーの服を着ていた。
僕の目線は彼女らに、正確には黒髪のボブの子に止まった。
その子のことを見たことがある気がして、もしかしたら昔、一度一緒に寝たことがある子かもしれないし、なにかしらの講義で一緒になり、グループワークをした子かもしれないし、食堂で見かけただけかもしれなかった。
彼女の白い首を見る。
彼女の肌のやわらかさを、温度を想像する。
僕は彼女らに声をかける。
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