第5話

 灰白色のチンアナゴと目が合った。

 彼は小さな水槽の中で、水槽の下に敷かれた白い砂から体を出し、小さな目を僕に向けていた。

「かわいいー」

 瑠香はそう声を上げる。

 そのチンアナゴはほうけていて、何も考えていない様に見えた。自身を覗く二本足の生物も、自分がどこにいるのかも、自分の生殖のことや明日の食事のことまで、一切の考えを辞めているように、どこまでも超然としていた。

「ばかみたいだ」

 僕がそう呟くと、「そこがいいんじゃん」と瑠香は言った。

 平日の水族館はやはり空いていて、どの水槽も自由に見て回ることが出来た。

 館内は暗く、四方に青く光る水槽が煌めいていて、自分が海の中にいるのだと錯覚をする。その海の中は綺麗で静かだけど、どこまでも息苦しい。

「ね、ね、ペンギンどこかな。まだ先?」

「そうじゃない?」

 僕と瑠香は手を繋いで水槽に囲まれた通路を歩く。途中、クラゲがゆらゆらと幻想的に漂っていたり、気味の悪い深海魚が岩の隅でじっとしているのを見たけれど、どれも強い興味はそそられなかった。

 巨大な水槽がある部屋に入った時、瑠香が声を上げた。

「あ、サメ!」

 その言葉に思わず、瑠香の手を握る力が少し強くなった。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 瑠香が指した方向には確かに大きなサメがゆっくりと泳いでいた。周りには小さな魚もサメのことなど気にせずに泳いでおり、サメもまたその小さな魚には目もくれずに、水の中を我が物顔で移動する。

「わぁー、おっきいねー。あれ、ホオジロザメかな」

「そうかも」

「あの小さな魚、食べられたりしないのかな」

「十分に餌が与えられてるんだよ。楽して毎日飼育員が餌を与えてくれるからわざわざ逃げる小魚を苦労して追う必要は無い」

 野生を忘れてすっかり骨抜きにされたそのサメは、姿形は『ジョーズ』に出てくるサメに似ていたけれど、その迫力のない、たるんだ姿は『ジョーズ』のサメには似ても似つかない。

 僕はそのサメの姿に無性に腹が立った。

 それはその姿がこの世界では異質で、不自然で、あるべき姿ではなかったからだ。きっと。

 その後、ペンギンを見た。イルカを見た。オットセイを見た。

 どれも自然からはかけ離れたフィクションの姿で、僕はどこか冷めた目でしか見ることが出来なかった。

 帰りの電車で「楽しかったね」と話しかけられても、いつものように相手の感情のレベルに合わせ、話すことが出来ない。僕は曖昧に返事をすることしか出来ない。

 僕はそれほどまでにショックを受けていて、水族館で野生の姿を見ることが出来るとは思っていなかったけれど、でもサメだけはなぜだか違う気がしていて、そんな子供じみた馬鹿みたいな考えを持っていたことをそのとき知った。

「あ、真琴って工学部だよね」

 ゆらゆらと電車の揺れに身を任せて、チンアナゴのようにほうけていた僕に瑠香はそう話しかける。

 先程まで話していた水族館の話題と工学部という単語が頭の中でどうにも結びつかず、彼女の方を向くと、彼女は手元のスマホを見ていた。

「この人、真琴知ってるんじゃない?」

 スマホの画面を向けられ、瑠香からスマホを受け取ってまじまじと見る。

 ネットニュースの記事だった。齋藤岳大さん(58)、路上で何者かに襲われ、意識不明の重体。そんな文言がでかでかと書かれている。その下には齋藤岳大がW大の教授をしていること、彼の研究が昔世界で評価されたことがつらつらと説明されていた。

「いや、知らないな。もしかしたら、構内で顔を合わせたことくらいならあるかもしれないけど。この人の研究、俺の研究分野と違うし」

 スマホを瑠香に返すと瑠香はふーん、そうなんだ、と呟く。

「でも私ももしかしたら構内で顔を合わせてたかもかもしれないんだよね。去年までW大に私も通ってたんだし。私は文系だから真琴よりは可能性低いけど」

「確かに。食堂とかで相席してたりして」

「それはない。私いつも早苗たちと食べてたし」

 瑠香は画面をスクロールする。

「うわ、すぐ近くじゃん。現場。こわー」

「どこ?」

「R駅から徒歩3分。ほら近くに小さい薬局あったじゃん。あのそば」

「まじか。ほんとにすぐ近くじゃん。次から会社まで送り迎えしようか」

「いいよ。そんなに遅くならずに帰るつもりだし。どうしても遅くなった時だけ頼っちゃおうかな」

 僕は頷く。

「任せて」

 僕はそのときにようやく、あの教授の名前が齋藤岳大であることを知った。


 ※


「一人で遊んでるの?」

 顔を上げると、若い男が僕を見下ろしていた。

 僕は壁に当たって跳ね返ってきたボールを足で受け止めると、彼をよく観察した。

 髪は短く、黒い縁の眼鏡をかけていた。黒いコートは彼のスタイルをよく見せていた。

 僕がじっと彼の顔を見ていると彼は再び話しかけてきた。

「お父さんやお母さんは? まだお仕事かな」

 僕は答えず、ボールを再び壁に向かって蹴る。バンという音がしてボールは緩やかな放物線を描いて戻ってくる。

 僕がそこで壁当てをしていたのは別にサッカーが好きという訳ではなく、ただ単に寒さを誤魔化すためだった。雪が降っていないとはいえ、普段着ていたよれよれのTシャツだけでは12月の寒さを到底凌ぐことが出来なかった。

「うち来るか? 俺ん家この近くだし、俺独りだと寂しいんだ。遊び相手になってくれないか。うちなら暖かいし、お菓子もあるし、ってなんかこれだと誘拐犯みたいだな」

 彼はそう言って、頭をかいて笑った。

「誘拐犯なの?」

 僕がそう訊くと「まさか」と声を上げた。

「ただの大学生だよ。ほらそこの。大学生が誘拐なんかするか? いや、する奴もいるな。でも俺は普通の、一般的な大学生で、ああ、何言っても怪しく見えるよな。俺」

 そのとき、彼が純粋に僕を心配してくれていることは気がついていた。正確な時間は分からなかったけれど日はとっくに沈んでいて、辺りは真っ暗だったし、真冬にTシャツ1枚で一人遊んでいる子どもを見たら誰だって心配する。そのことがわからないほど、僕は子どもではなくなっていた。

 心配してくれることに関して、正直嬉しいという気持ちはなく、ありがた迷惑だと思った。

 普段であれば、ここまで辺りが暗くなる前にもっとひとけのない場所に移動して静かに遊ぶようにしていた。こういうありがた迷惑を受け取らないように。

 でも、その日は空腹と寒さで頭が上手く働いていなかった。辺りが真っ暗になっているのにも関わらず、僕はそれに気がつかなかった。僕は失敗をしたことを悟る。

 この人はこの後、どうするつもりだろう。僕の母親に言いつけるのか。もしくは学校か。児童相談所か。

 このまま逃げてしまえば、それらのところに僕のことを言いつけられる可能性が高く、それは避けたかった。もし、今彼について行けば、彼について行き、自分が全く普通の少年で、今日だけたまたまこんな格好で、つい遊びに夢中になってこんな時間まで遊んでいたということをアピールすることが出来れば、どこかに言いつけられるのは少なくとも保留されるだろうと思った。

 そういう打算があって、それに加えてそのときはしばらくまともなものを食べていなかったし、長い間外にいたせいで骨の芯まで冷えきっていて、彼の言う暖かい部屋やお菓子の誘惑に僕は抗うことができなくて、僕は「いいよ」と返事をした。

 彼はそれを聞くと顔を綻ばせ、「うちにゲームがいっぱいあるんだ。好きなゲームはある? 一緒に遊ぼうぜ」

 そう言って、僕の手を握った。彼の大きな手は燃え上がる火のように熱かった。


 ※


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