第7話
重たく粘り気のある眠気を引き摺りつつ体を起こした。
カーテンの隙間から一筋の光が入り込み、それが部屋の床を照らしていて、その明るさから既に昼過ぎであることを知る。
頭がガンガンと痛み、喉が渇いていた。
ベッドから裸の足を床に下ろし、そのまま冷蔵庫に向かって、中から冷えたペットボトルの水を取り出して飲んだ。そのとき、唇に痛みを感じ、鏡で自分の顔を見る。
唇の端が切れていた。右目の周りも若干青くなっている。
喧嘩でもしたのだろうか。しかし僕は昨日のことを上手く思い出すことが出来ない。
脳の動きは鈍く、文というか、単語が雑然と存在していて、意味の掴めない情報だけが巡る。
たぶん、沢山酒を飲んだ。それは分かる。頭の痛みが、体のだるさが、ボディブローを喰らった後のような胃を刺激する気持ち悪さがそれを示してくれている。
なんで酒をそこまで飲んだのか。なんで怪我をしているのか。
情報を整理する。鈍い脳で、ゆっくりと。
部屋の隅には若く、痩せた男が立っていて、何も言わずに二日酔いでどこで作ったかわからない怪我を抱えた情けない僕のことをじっと見ている。
蛇口を捻って水を出し、顔を洗う。水が傷口に染みる。水の冷たさがどろりとした眠気を飛ばし、脳が油を差した古い機械のように徐々に動き始める。
少しずつ、僕は思い出していく。
「あんた、佐藤真琴だろ」
僕が図書館で声をかけた時、金髪の方がそう言った。
黒髪のボブの子は、友人である金髪の子を心配そうに見ていた。僕はその金髪の言い方に棘を感じて、不思議に思った。
「知ってる人?」
ボブの子が金髪の子に耳打ちする。
金髪の子は息を吸い、吐き捨てるように言う。
「セックス依存性のクソ野郎だよ。手当り次第女の子に声掛けまくってる」
「え」
思わずそう声を出すと、金髪の子は僕を睨みつける。
「覚えてねえのかよ」
その言葉で僕は彼女の顔をよく観察して記憶を探る。こういう敵意を向けられることは結構よくあって、逆恨みの時もあれば、正当な理由の時もあった。相手は僕がフッた子だったり、どこかでセックスをした子だったりするけれど、僕は彼女らの顔を覚えていないことが多かった。
彼女の目元にほくろがあることを見つけて、僕は答えにたどり着く。
「あー、塾の子か」
髪型が変わっていたので気がつかなかった。当時、彼女は黒髪で眼鏡もかけていたはずだった。彼女は今、金髪で恐らくコンタクトにしていて、まるで別人だった。
僕は大学一年から三年まで、個別指導塾で講師のバイトをしていて、大学二年の時に彼女を受け持っていた。当時、彼女は高校二年生だった。
たしか、寝たと思う。一度寝て、飽きたのかもしれないし、塾の方にバレそうになったので辞めたのかもしれない。正直、詳しいことは覚えていなかった。気がついた時には彼女は担当から外れていた。
「大学、受かったんだ。おめでとう」
僕がそう言うと、僕の方をキッと睨みつけ、「死ね」と言い、荷物をぞんざいにまとめると黒髪ボブの子を連れて図書館から足早に出ていった。
僕は一人残され、彼女らの背中を見送った後に玲に電話をかけた。
「今日会えない?」
そう訊くと「ごめん、今日私バイト入っちゃってて」と返ってくる。
「遅くなってもいいから」
「えー? なに? 何かあったの?」
「お願い」
「うーん、ごめん。明日も朝早いし、また今度ね。今度の月曜なら空いてるから、もしよかったらどこか行かない? 最近―――」
思わず、通話を切る。
どうしようもない苛立ちが全身に広がる。
僕は膨れ上がった性欲を、苛立ちを誤魔化すために酒を飲んだ。
僕が入ったのは安い居酒屋で、赤い提灯が至る所に飾られていた。
店内は騒がしく、大学生と思われる若者のグループもいたが、多かったのはスーツを着たサラリーマンの集団だった。彼らは大きな声で、唾を飛ばしながら愚痴を言ったり、武勇伝を声高に語ったり、誰も興味が無い自身の仕事論を偉そうに後輩に熱弁していた。
その熱が、騒音が嫌でそれらを忘れられるように酒をひたすらに飲んだが、苛立ちは増していくばかりで、気分が悪くなった。
「よお、兄ちゃん。一人かよ。寂しいなあ。女にでも逃げられたか?」
近くに座っていた客にそう絡まれた時、その男はやはりスーツを着ていて、日中はあらゆる人に頭をぺこぺこ下げながら仕事をしているんだろうと思った。玲と一緒に行ったカフェの店長を思い出す。
僕は拳を握り、彼の頬を思い切り殴った。
彼は椅子をなぎ倒して後ろに転がる。周りで悲鳴が上がる。男は身体を起こし、自身の頬を手で抑えて何が起こったのか理解しようとした。そして理解した瞬間、彼の顔は怒りで真っ赤に染まり、僕に向かって突進した。
僕は酔いが回っていて、うまくそれを躱すことができなくて、彼の拳がちょうど僕のみぞおちに当たった。僕が床に倒れ込んだところで、男は馬乗りになって僕の顔を何発か殴った。
何人かの客や店員が騒ぎを聞いて駆けつけ、僕と男を無理やり引き剥がした。男は両腕を店員に抑えられながら僕に向かってなにか罵倒をしていた。
僕は新鮮な痛みを感じながらしばらく仰向けに倒れて赤い提灯が揺れる天井を眺めていて、目をふと横に向けたとき、痩身の若い男が僕の傍に立っていることに気がついた。
その男は静かに僕を見ていた。
僕はその男がアエーシェマだと気がつく。ゾロアスター教の、暴力の神アエーシェマ。
その姿はよっちに見せられた絵とは異なり、その男は毛むくじゃらでも無ければ角も生えていないし、武器だって持っていなかったけれど、僕にはその男がアエーシェマだと分かった。
彼は今初めて僕の前に現れたというより、もっと昔、はるか昔から僕の傍にいて、僕の一挙手一投足を見守ってくれていたような感覚があった。きっとそれは認知できていなかっただけで。
僕はアエーシェマに向かって手を伸ばす。
僕はアエーシェマを信仰し、彼を愛す。
しかし、彼が僕の手を取ってくれることはなかった。
長い前髪の隙間から彼の目が見えた。その双眸は悲しみをたたえているように見えた。
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