第19話 同棲からの…
お風呂に上がって火照った体。だが、体の芯まで熱いのはそれだけが原因ではない。
人生(これには前世も含まれる)で初めて女の人と一緒に裸の付き合いをして、あまつさえその胸の中で泣きわめいたのだ。幸人は恥ずかしさでまともにブレアの顔を見られなかった。
「…じゃ、じゃあ、おやすみなさい」
使用人控え室が並ぶ廊下で幸人はブレアと別れることになる。
幸人の部屋は奥の通路を通って右。ブレアの部屋は一番手前にあるからだ。だからブレアの部屋がある前で幸人は強く握られたブレアの手をやんわりとほどこうとした。
「幸人は今日から私の部屋で寝てください」
ブレアはほどこうとする幸人の手をしっかり握りしめると、一方的にそう告げて部屋に引き込んだ。
「え、でも迷惑なんじゃ…」
「弟は姉に遠慮する必要はありません」
「あ、はい」
いつの間にか「弟みたい」から「弟」になっていた幸人。
ブレアは炎が揺蕩う―火の大精霊の眷属の証たる双方の目で幸人を見ると、ただ遠慮するなとだけ言ってベッドに座らせた。
ブレアの私室は女の子らしさもない仕事部屋だった。左右の棚には付箋が貼った紙でびっしり。机にも同じように資料らしき重要そうな紙が置かれ、印鑑も備えてある。
「ご心配なさらずとも盗人対策はしております」
幸人が忙しなさげに紙や印鑑に視線をやっているのを見て、ブレアがそう言った。
(いや、それに関してはあんまり心配してません)
幸人は歓待式から今日に至るまで、スカーレット率いる『火燕』の怖ろしさは身に染みている。幸人の中で絶対強者だったレイクが片手で地面に埋没した―あの瞬間で。
「では、軽く勉強してから寝ましょう」
「僕は…その椅子に掛けてあるブランケットさえ頂ければ…」
「?ベッドがあるので大丈夫ですよ」
ブレアは何を言ってるの?みたいな目で見る。
急に縮まり過ぎた距離感。あまりのお姉さんムーブに幸人は戸惑い、ぎくしゃくしていると、
「筆記ならリンジャ公用語の他にも、ヨースガルド帝国等で公用語とされるミナノ語も憶えておいた方がいいです」
「ミナノ語?」
「ええ。世界で最も一般的な言語で、大抵の国で通用します」
幸人は「元居た世界で言うと英語か」と納得した。
ブレアは棚から本を一冊引き抜くと、資料を片付けて空いた机のスペースに置いた。
「こちらが大聖堂で学ぶミナノ語の教本です。さあ、幸人、こちらに座って」
「え、でも、そこは…」
ブレアの膝の上だった。ポンポンと膝を叩くが、流石にこれは遠慮する。
躊躇する幸人を見かねたブレアは、幸人の華奢な体を持ち上げて強制的に膝の上に座らせる。
「あ…」
「こちらの方が教えやすいので」
ブレアはいつもの固い表情のままそう言って幸人の頭を撫でた。
「…明日からの幸人の仕事は私や『供回り』と一緒に火燕が迷宮探索で手に入れた資材の仲卸作業を手伝うことです。そこで使われてる言語もこのミナノ語ですので、頑張って覚えましょう」
「あ、あの、蔵の清掃は…」
「朝起きたら私がやっておきます。たぶん五分と掛からないので」
幸人の二、三週間分を僅か五分で終えると宣言。
これには幸人もがっくしと項垂れる。魔術が使えない者と使える者の差をこうも容易く見せられては、折角湧いてきた希望も薄れそうだ。
「気にしなくていいですよ。弟が出来ないことを補うのが姉ですから」
幸人のネガティブ思考を見抜いたのか、ブレアが先んじてそう慰める。
(出来ないことが多すぎるんですが。今もこうしてブレアさんのお荷物になってるし)
ともあれ力作業から解放されるのは幸人にとって渡りに船だ。正直、これからどう頑張っても成果は上げられそうにないし、変に意地を張って続けるよりかは人に任せた方がいい。
「あの、ブレアさん」
「ブレアお姉ちゃんです」
教本をパラパラと捲る。内容がなんとなくわかるほどにはミナノ語は読めた。それもそのはず。幸人は数ある物語を読んできたのだ。その中でミナノ語は一番目にする機会が多かったとも言える。少なくとも古代妖精語とかよりは何倍も理解できる。
しかし…
「あの、内容はわかるのですが、発音がわかんなくて…」
幸人の学習は歪だった。
物語を通して読む能力はつけてきた。しかしその言葉を正しく発音しろと言われると無理だ。
なぜなら周囲に発話者がいない。ほぼ全ての会話が同種にしか通じない言語や魔力を介したものだったからだ。唯一、孤児院を経営していたマイアンがリンジャ公用語を話してくれたくらい。
「発音はいりません。というか、発音なんてありませんよ」
「え?」
「これは筆記用の言語です。ミナノ語は魔力を介して言語を自分都合に翻訳する第一干渉魔術―トランスレートが簡易化され民間のおおよそ誰もが扱えるほどになった後に作られた言語ですから」
筆記だけの言語か。リンジャ公用語とはまた違い、ミナノ語は会話だけが簡単になっていくこの世界特有の弊害を解決するために生み出された言語らしい。ならば幸人もほぼ会得していると言っていい。
「幸人は読めるようですから、あとは書けるようになるだけですね」
「なんだ!それなら!」
簡単じゃないか!
そう息巻いた幸人はさっそく習字に取り掛かった。
―それから机に向かうこと約一時間語。
「む、無理だ」
舐めていた。読めれば書けるは大きな間違いだった。
例え見てなんとなくの意味を理解できても、完全に文字そのものを記憶しているわけじゃない。むしろ幸人の雑な記憶が足を引っ張っている。
「よしよし」
最初の勢いは完全に失われ、またもや挫折を味わう幸人をブレアは慰める。
「今日はこれくらいにしておきましょう。幸人も疲れていることですし」
ブレアは畳んでいた布団を敷くと、そこに寝転がって隣の隙間をポンポンと叩く。
(そういえば、もう何日寝てないんだっけ?)
疲れていた幸人は抗う気力もなく、ブレアに誘われるままにベッドで力尽きたのだった。
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