第13話 門下生

 武術研究会が使用している教室内は、俺が矢神さんの下の名前を呼ぶのを、皆がまだかまだかと固唾を飲んで見守っていた。

 俺は覚悟を決めて、大きな声ではっきりと彼女の名前を呼ぶ。


 「あ、彩矢!」


 矢神さんはコクリと頷くと、顔が真っ赤になっていく。

 俺は、そんな彼女可愛いと思い、愛おしい感情を抑えるように、静かに見つめた。


 ……。

 …………。

 ………………。


 室内に沈黙が続き、矢神さんは真っ赤になった顔を両手で押さえ、恥ずかしそうにしていた。


 「「……えっ? それだけ?」」


 武岡さんと早紀さんが呆れた表情を俺に向けて、不服そうにする。

 こいつらは、何を期待してたんだ?


 「それだけも何も、矢神さんからの……」


 ギュウ。


 「イタタタ……」


 矢神さんが俺の手の甲を力強くつねり、プクーと膨れていた。


 「ご、ごめん。コホン。彩矢の要望には応えたんだから、問題ないだろ」


 俺が答えると、彩矢は満足そうに頷いている。


 「問題大ありよ!」


 武岡さんが叫ぶ。


 「武岡の言う通りよ! あんな、これから告白しますって言っているようなムードをかもし出しておいて、なんで、名前を呼んだだけで終わらせてんのよ! バカなの?」


 武岡さんに加勢するように、早紀さんも口をだしてくる。


 「俺は緊張していただけで、告白ムードなんて出してない。そっちが勝手に思っていただけだろ。それに、あれ以上、何をしろと?」


 「えーと、それはその、あれよあれ、って、女の子にこれ以上、言わせるんじゃないわよ! だから、野山君は野山君なのよ!」


 武岡さんは顔を真っ赤にして、訳の分からないことを言い出した。


 「まったく、武岡は初心うぶなんだから、私がビシッと言ってやるから」


 早紀さんが武岡さんの代りに教えてくれるようだ。


 「あの後に、「彩矢、お前は俺のものだ!」って言って、彩矢ちゃんをガバッと抱き寄せ、ブチューと唇を奪ったら、彩矢ちゃんの胸を鷲づかみにして……そのまま押し倒すのよ! じゃあ、最初からやり直してみよう!」


 「そんなこと、できるかー!」

 「そこまで、させるなー!」

 「そんなの無理ー!」


 俺が叫ぶと同時に、武岡さんと彩矢も叫んだ。


 「ハァー、皆して初心なんだから……」


 早紀さんは両手を挙げてヤレヤレといった仕草を取る。


 「「「「「いやいや、早紀ちゃん、それは違う……」」」」」


 さすがに、女性会員たちも手を横に振り、否定した。

 そして、女性会員たちの中からお姉さん系の女性が歩み出ると、早紀さんに近付き、彼女の両肩に手を乗せる。


 「早紀ちゃん、それって、私が貸したラブコメ漫画のシーンと一緒だから。あれは、漫画なの、フィクションなのよ。あんなことを実際に人前でやったら、ただの変態カップルよ。早紀ちゃん、影響を受けすぎちゃダメよ。分かった?」


 「はい。ごめんなさい……」


 とても素直で、子供のようになってしまった早紀さんに、俺は驚く。


 「うん。分かればいいのよ」


 そのお姉さんは、早紀さんに寄り添うようにして、彼女の頭を優しくなでる。

 姉に甘えるような早紀さんの姿を見て、彼女がこのお姉さんを信頼し、なついていることが良く分かった。

 ところで、早紀さんは、俺と彩矢に何をさせるつもりだったのか? 彼女が読んだというラブコメ漫画が無性に気になってくる。




 ふと、お兄さんのことを思い出し、恐る恐る彼に視線を向けると、困ったような諦めているような表情を浮かべて、彼はこちらを見つめていた。


 「あのー、佐々木さん。なんか、変な状況ばかりになって、すみません」


 俺が謝ると、彼は申し訳なさそうに笑顔を見せる。


 「いや、うちの妹が原因のようなものだ。気にすることはない。こちらこそ、妹がずけずけと申し訳ない」


 「いえいえ、気になさらないで下さい。それで、そろそろ本題に入りたいのですが」


 「おお、そうだったな。ただ、その前に、確認したいことがあるんだが、いいかな?」


 「なんですか?」


 「君は浩太こうた君、野山 浩太君で間違いないよな?」


 「は、はい、そうです」


 お兄さんに、俺のフルネームを教えていただろうか? 俺の下の名前は、誰も口にしていなかったと思うが……。

 俺の下の名前を知る彼を見ながら、俺は考え込んでしまった。


 「すまんすまん。悩ませてしまったか」


 「いえ、まあ……」


 「すっかり見違えてしまって、俺もさっきまで気付かなかったんだ。浩太君が俺のことを忘れてしまっていても仕方がないさ」


 ん? 俺はお兄さんと会ったことがあるのか?

 お兄さんのような感じの人は、実家に行けばごまんといるせいか、彼と会ったことがあるのかを思い出そうとしても出てこない。


 「えーと、うちの道場に来たことがあるんですか?」


 「数回だが、君と手合わせをしたこともあるぞ。俺の全敗だったがな。アハハハハ」


 恥ずかしそうに笑うお兄さんだったが、俺は手合わせまでして覚えていないことに、焦りだしていた。

 どうしようと、彩矢や武岡さんのほうをチラッと見ると、二人だけでなく早紀さんや会員の人たちまでもが口をあんぐりと開けていた。

 な、なんだ、この状況は?


 「えーと、どうしたの?」


 俺は、恐る恐る彩矢たちに向かって声を掛ける。


 「お兄ちゃんが勝てなかったって……それも全敗だなんて……。野山君、お兄ちゃんにどうやって勝ったの?」


 「そ、それは……」


 早紀さんが尋ねてくるが、俺は覚えていないので返答に困った。


 「野山君に聞いても無駄なようね。お兄ちゃん、どうやって負けたの?」


 お、お兄さんに、なんて辛辣な質問を……。早紀さんには、容赦という言葉を知らないのか?


 「さ、早紀、お前ってやつは……。まあいい、話してやる……」


 お兄さんは、少し間を取る。


 「お兄ちゃん、何をもったいぶってんのよ。さっさと話してよ」


 こ、この子は……。


 その場にいた皆は、早紀さんを困り顔で見つめる。


 「今、話す。コホン。実を言うと、俺は野山組討道場の門下生だ」


 「はあ? お兄ちゃんがやってたのは空手でしょ?」


 「いいから、黙って聞け!」


 お兄さんは困り顔で早紀さんを見つめると、大きく溜息をついた。


 「コホン。空手で、それなりに強くなった俺は、歯向かう奴がいないことで調子に乗って、自分が強いことを誇示していた。そして、その頃の俺は、いつも言いがかりをつけては、そこら辺の奴らを痛めつけていた。そんな時、ある人に出会ったんだ。その人は、加減を知らない俺を止めようとしたが、俺は邪魔をするその人に襲い掛かった。だが、俺の攻撃は全てかわされ、逆にぐうの音も出ないほどにコテンパンにのされてしまった。世の中にはこんなに強い人もいるんだと思い知らされたよ」


 「お兄ちゃん、もったいぶらないでいいから、ちゃっちゃと話してよ」


 「早紀、あんたは黙ってなさい!」


 早紀さんがお兄さんの話しを折ると、彩矢と武岡さんが彼女を取り押さえて大人しくさせた。


 「コホン。その時、俺をコテンパンにしたのが、和人かずとさん、浩太君のお兄さんだ。俺は和人さんの強さに憧れ、俺を鍛えなおして欲しいと彼に頼み込んだ。そして、力を誇示せず、頼らず、力で解決しないことを条件に、連れて行かれたのが野山組討道場だったんだ。和人さんは、師範代をしていた浩太君のお姉さんの千秋ちあきさんに俺を預けると、立ち去ってしまった。当初、俺は女に教わるのかと舐めてかかったのだが、彼女は強く、そして、容赦はなかった。俺はコテンパンどころかボロボロにされたんだ。ほんの数週間の間に二度も負けた俺は、稽古に励み、千秋さんを師と仰ぎ、先生と呼ぶようになっていた。先生は美人でおしとやかで、さらに、強くてしなやか、柳桜のような女性だ。俺は和人さんの時と同様、千秋さんにも憧れた」


 「ああ、だから、しばらく帰ってこなかったんだ。稽古に励んでるからだと思ってたけど、女に励んでたとは……。お兄ちゃんのスケベ」


 早紀さんは、再びお兄さんの話しを折るが、何故だか、彩矢と武岡さんは彼女を放置したままだった。


 「早紀、お前、変なことを言うな! 先生のような高嶺の花を、俺がどう転んだって、どうこうできるわけがないだろ!」


 「佐々木さん、目を覚ましたほうがいいです。姉貴、コホン。うちの姉はそんなたいそうな女性じゃありません。自分勝手でマイペースな無茶苦茶な性格で、弟をいじめるのに生きがいを感じるような人ですから」


 俺はお兄さんが過ちを犯さないように、現実を教えた。

 お兄さんや早紀さん、他の皆も、自分の姉をボロクソに言う俺を見て、引きつるような笑みを浮かべる。


 「ま、まあ、浩太君が先生に遊ばれているのを、俺も散々見たから、気持ちは分かるが、あれも愛情だとも思うんだが」


 「佐々木さん、愛情も度が過ぎれば、殺意が生まれるんです」


 「「「「「……」」」」」


 俺の言葉に、お兄さんだけでなく、皆も唖然とし、顔を引きつらせた。


 「コホン。えーと、話しを続けるぞ。えーと、俺は先生のもとで稽古を積み、試験をされることになった。その時の相手が、当時、中学生だった浩太君だ。いくら男とはいえ、中学生を相手に本気は出せないと思っていた俺だったが、手合わせをしているうちに本気になり、そして、負けた。先生は浩太君では、まだ早かったかと妹の美夏みかちゃんとも手合わせをすることになった。さすがに小学生の女の子ではと思っていたのだが、本気を出しても敵わなかった」


 お兄さんは、自分で話していながら、落ち込むように頭を垂れた。


 「さ、佐々木さん、美夏に敵わなくて当たり前です。あいつは天才ですから。俺だって、ある時期、だいたい中学になった頃なので、たぶん、その当時を境に勝ったことがないんですから」


 「ちょっと待って。野山君と戦わせて負けた相手を、さらに強い人と戦わせたことにならない? 順番が?」


 武岡さんが悩みだすと、周りも言われてみればと悩みだす。


 「姉貴は、そういう人なんです。何も考えず、その場の思いつきで決める滅茶苦茶な人なんです」


 俺が強調すると、皆は引きつった笑顔を見せた。


 「ん? 今、思い出したんだが、早紀、お前、道場に遊びに来てたじゃないか」


 「「「「「!!!」」」」」


 俺も皆も驚き、早紀さんを見つめる。


 「えっ? あれ? ……うーん。どんなところだっけ?」


 早紀さんは思い出せないようだ。


 「山を少し登ったところにある道場だ。お前、「こんなところに道場を作るな! なんの嫌がらせだ!」て吠えてたじゃないか。それに、先生と美夏ちゃんとはかなり仲良くしてたぞ」


 「……あっ! 思い出した。お姉さんと美夏ちゃんのことも思い出した。いやー、懐かしい。でも、お兄ちゃん、少し山を登ったは違うよ。山を一つ越えて先の山を少し登ったところにあったんだけど……」


 「確かに、学校へ通うのに、ずっと苦労したからな。大学に入ってからは通学が楽だし、楽しいくらいだからね」


 嬉しそうに笑顔を見せる俺に、皆は複雑な表情を向けていた。


 「そう言えば、自給自足のようなところで、お姉さんと美夏ちゃんと一緒に野菜の収穫とかを手伝ったのも思い出した。数日は泊ったけど、手伝うことが多くて、あっという間に過ぎちゃったんだよね」


 「えっ? 早紀ちゃん、野山君の家に泊まったの?」


 思い出して懐かしむ早紀さんに、彩矢が迫った。


 「えっ? あ、彩矢ちゃん? 何だか、目が怖いんですけど……」


 これは……。また雲行きが怪しくなってきた。

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