第55話 天歩艱難


 何気なく見ていた携帯の画面にその文字を見つけた。私の心が『天歩艱難』というこの文字を離さなかった。

 なぜか涙がつーっと頬を伝って静かに落ちる。

 私は意味を検索してみる事にした。



――天歩艱難――


 天歩……天体の運行。

 艱難……悩みや苦しみ。


 天運に恵まれずに非常に苦労をする事。天の運行に支障が生じ、転じて時運に恵まれずに非常に苦労をする事。


「なにこれ。天歩艱難って、私の事じゃないの?」

 誰もいない部屋で思わず口から言葉が飛び出した。

 なぜ、この言葉に今このタイミングで、私は出会わされたのだろうか。


 私は小さな頃から両親の喧嘩の声を聞きながら大きくなった。

 たくさん引っ越しもさせられた。

 そのせいでイジメも受けた。

 家出をした事もあったな、隠れながら生きた1週間だった。

 

 もちろん嬉しい事もあった。

 結婚して、大事な娘と出会った。

 小さな頃の娘はとても愛らしかった。

「ばっばっばっ!」

 と四つん這いになって怪獣のような声を出して部屋を這いずり回る。

「いヒヒヒヒヒ!」

 とひまわりのような笑顔を時には見せた。

 ベビーカーに座らせて買い物に行くと、お肉売場のラップに小さな指の跡をつけて遊んだ。 公園で遊び疲れて家に帰ると、靴を片方しか履いていなかった。


 そんな可愛いい娘と出会えた事は奇跡だったと思う。


 でも、ちっともうまくいかなかったな。

 いつも苦労してばかりだった。

「あんた達のようには絶対になりたくない!」

 そう言って、両親に毒を吐いた事もある。


 この天歩艱難という言葉に出会い、意味を知ったときは体が震えた。

 これまでの私そのものだ。


 私の人生にこんなにぴったりと当てはまる言葉は他には見つからない。こんなにあてはまるものかねぇ、なんて感心してしまった。

「笑える」

 と、小さく呟いた。


 たまたま重なってきただけかもしれない。


 それとも、私が持って生まれた運命なのかもしれない。神様は世の中を平等にしてくれるはずなのに、私にだけは意地悪をしているのか。


 それとも、あの偽物の結婚生活が私に平等に与えられた幸せだったのだろうか。


 それとも、私は知らないうちに何か悪い事をしていて、罰を与えられているのだろうか。毎日毎日、知らない間に小さなアリを踏みつけて潰してしまってきたのだろうか。

 もっとひどい事をした罰を受けているのか。

 考えてみたが見に覚えがない。

 知らないうちに、私の口から溢れた言の葉で誰かを傷つけてしまったのだろうか。



 それともババ抜きのように、私は自分の手でババばかりをしっかりと選び抜いて生きてきたのだろうか。

そういえば、初詣で御神籤をひけば、私はいつも(凶)だったな。

 やっぱり自分で選んできたのだろうな。

 私は床に小さく項垂れて座り込んだ。


 だとしたら、娘を巻き込まない方法はなかったのだろうか。

 娘の裁判の時に退室させられてもいいから泣き叫んでぶつければ良かったのだろうか。

「全部お前のせいだからな!!」

と。


 不幸になるのは私だけで良かったはずなんだから。


(何てひどい母親なんだろうか。)

(どうしてもっと早くに気づいてあげれなかったのだろう。)

(社会人になった時に無理矢理にでも1人暮らしをさせれば良かったのだろうか。)

(いや、オッドと一緒に居たかったのだろう。私とオッドを離れさせるのも嫌だったのだろう。)


 どんなに考えを巡らせても答えなんて見つからなかった。


 娘は今も何とか仕事をしていて、休みの日には友達と出かけられるようになった。

 少しずつ明るい方へ進んでいるようだ。

 オッドの可愛いい写真も時々送られてくる。


(あぁ、私で良かった。)

(あぁ、本当に。倒れてしまったのが私で良かった。)


 それだけは、神様に感謝をしている。娘の分の苦しみや痛みを私が少しでも引き受けているのならば、それでいいんだ。

 時には、そう思えた。


 だけど。

 私は疲れていた。

 とても、とても、とても疲れていた。


(あぁ、ひとことだけ『ごめんね』と言えたなら私は少しは救われるのだろうか。)

 だけど、私にはその勇気がなかった。

 私が口にする事で、また思い出させてしまうのではないだろうか。

「せっかく忘れようとしているのに!」

 と怒らせてしまうのではないだろうか。

 私は怖くて仕方なくて、言葉を飲み込む事しかできなかった。


 昔感じていた痛みに似ているような、でも違うような、何とも言えない感情が私を支配し始めている。


 ついていないテレビの黒い画面を眺めていた。


 ふと気づくと私は何かに導かれるように、部屋を綺麗に片付けを始めていた。


 それはまるで昔、DV夫の元から逃げ出すまでの数日間と同じように。


 一部屋ずつ、綺麗に片付けて、埃を取る。

 肩に、足に、腰に、心にも痛みが走る。

 そんな痛みに耐えながら、片付けを続けた。


 私の暮らしていた小さな部屋は、あっという間に綺麗になった。


 そして新しく買ったばかりの白いワンピースに着替えた。まだ少し肌寒いので、上着を羽織る。


 私は部屋を見渡した。

 そんなに長く住んでいた訳ではないけれど。

 そこらじゅうに泣いている私の姿が目に浮かんだ。


 辛くて見れなくなった、大好きなグループのDVDやCDがたくさん並べてある棚の前に座った。

 ひとつひとつ手に取って眺める。


(あぁ、このライブは最高だったな。)

(あぁ、このDVD封開いてないや!)

 DVDの封を開けて、テレビをつける。

 デッキに入れて再生ボタンを押した。

(あぁ、このライブは娘と最後に一緒に行ったやつだ。)

 娘は途中から、違うアイドルのファンになってしまったからなぁ。

 しばらく画面を眺めて停止ボタンを押す。

 DVDを取り出して、元の棚に戻した。


 一番お気に入りのキーホルダーだけをカバンの内側に付ける。

(君は一緒に行こう。)


 ゆっくりと立ち上がり、全ての部屋の戸締まりを確認する。

 ガスや電気も確認した。

(大丈夫、OKだ!)


 お気に入りの白いスニーカーを履いて、靴ひもを結んだ。


 この部屋でどれくらいの涙を流したのだろう。

 ほんの少しは笑ったかな。


(短い間だったけど、お世話になりました。ありがとう。)

 と心の中でお礼を言う。

 そして、玄関を開けて外に出る。


(ガチャン)

 カギを閉めて私はゆっくりと歩きだした。

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