第54話 死にゆく心

 ほんのりと明るく見えている方へ向けていた体と心を、漆黒の闇の方へと向きを変えてしまった私は眠れない日々を過ごしていた。


 長い長い夜は、窓から月を見上げながら過ごしていた。ペットボトルのソーダ水を飲みながら、ぼーっとただ夜空を見ていた。

 建物の隙間から見える夜の景色の中で、毎日形を変化させていく月をたどった。

 新月から三日月へと少しずつ大きくなり、上弦の月を過ぎて満月を迎える。そして下弦の月となり、どんどん形を変えながら、また新月へと生まれ変わる。


 私もこんな風に形を変えながら生きていけるのだろうか。月のように美しくはなくてもいいから、そこに居続ける事はできるのだろうか。

 せっかく迎えた満月も次の日には欠けはじめてしまう。同じ事をただ繰り返し、闇夜に浮かんでいる月はなんの役目を果たしているのだろうか。


 答えなんて見つからない疑問を、私はただじっと窓辺に座って眺めている。


 毎晩のように月を眺めながら、美しく光る星を数えた。


 島で過ごしていた頃に眺めた夜空は、星が降ってきそうなほどに美しかった。その美しい想い出も、黒よりも黒い、汚れた色で塗りつぶされてしまった。


 娘が島の莉乃ちゃんと果たした約束はもう果たされる事もないであろう。

「また会おうね!」

 莉乃ちゃんは何も知らないまま、娘からの連絡を待っているのだろうか。

(ごめんね、莉乃ちゃん)

 きっと娘もそう思っているに違いない。


 私の部屋の窓から見える星はまばらで、降ってくるぼとの数もなかった。建物の隙間から見える小さな夜空からは、眠らない私の事なんて見えてもいないだろう。

 そして夜明けを迎え、空が明るくなってくると、少しだけホッとした。

 そして私はそのままうとうと眠りについた。


 目が覚めると、時計はお昼を過ぎている。

 ペットボトルのソーダ水は飲みかけのまま転がっている。

 とりあえず部屋の空気の入れ替えをして、食事をとっていた。美味しいわけでもなく、かと言って不味いわけでもなく、何も感じない、ただの食事をした。



(仕事に復帰してるだろうし、休みをとらなくてはいけないな…)

 なんて、当選した時はテンションがあがったライブのチケット。

 今は無職だ。当日は休みなんて取る必要もなく会場へと向かった。

 電車にも乗れなくて、タクシーで往復をした。

(贅沢だなぁ)と思いながら。

 ライブでさえもひとりぼっちで、グッズを握りしめて遠い席から眺めていた。


 楽しい曲もバラードも。その透き通った歌声に心が揺れた。ひとり静かに涙を流しながら、ただただ立ち尽くしていた。

(あぁ、ここに来れて良かった。)


 ライブが終わると、大きなイベントもなくなってしまった。約束もなくなってしまった。

 新しくなったカレンダーにはポツ、ポツと予定を書き込んである。


(病院)と(オッドの病院)。

 それだけだった。


 時々ポストを覗きに下りていく。

 たまにしか見に行かない為に、ポストからはチラシがはみ出している。その中から大事なハガキと封筒だけを探して、残りはゴミ箱へ捨てる。


 私はほとんど動けやしないのに、支払いの用紙は届く。

「はぁー、光熱費高いなぁ」


 ブツブツと呟くだけだ。もちろん母親や娘からのラインは時々送られてくる。

 娘はオッドの写真や動画を載せてくれた。

(可愛いいね。)

 とひと言送り、笑顔のスタンプを送る。

(ご飯食べた?何か欲しいものある?)

(食べたよ。買い物してきたから大丈夫。)

 と、私の心とは真逆のスタンプを送る。

 もちろん買い物なんて行ってはいない。


 母親や娘にはこれ以上迷惑も心配もかけられない。

 そうやって少しずつ少しずつ、私は見えない透明な壁を作り上げていった。


 父親からもメールが届く。

「今度の日曜日に皆で焼き肉でも食べよう。少しでもいいから、食べよう」

「うん、わかった」

 父親と娘と母親と私での約束。

 私は約束を守るつもりは最初からなかった。


 当日の約束の時間が迫る頃、

「ごめんなさい、体調悪くて出られない。みんなで行ってきて」

 と、断りの連絡を入れた。


 見えない透明な壁は少しずつ少しずつ高く積み上げられて立派なものになっていった。時折、床に転がっている私の涙や苦しみの欠片達も混ざってしまい、灰色の滲んだ模様がつきはじめた。


 携帯のアルバムに残された写真をスクロールする。

 娘がオッドを抱いて微笑んでいる。

 私がオッドのブラッシングをして白い毛玉を作って遊んでいる。

 オッドがキャットタワーで遊んでいる動画。


 もうこの頃の私は何処にも居なかった。

 ただ涙は溢れてくるのだが、泣く事はなく、笑う事も忘れてしまった。


 時間が過ぎるのを待っているだけだ。

 携帯の画面をスクロールしているが、瞳に写っているだけだった。


 楽しいってどんなんだったっけ?

 ワクワクするってどんなんだったっけ?


 嬉しい時はどんな顔をしてたっけ?

 美味しい物を食べた時はどんな顔になったっけ?


 私は感情の全てを何処かに置き忘れて来てしまったのだろうか。まるで他人の事のように感じながら、息をしていた。


 そんな私を、今度は突然のフラッシュバックが襲ってくるようになった。

 警察に電話をかけた日。

 たくさんの警察官達。警察署のソファ。

 女性の警察官。

 白い人形。

 娘の裁判。犯罪者の顔。義理の母親だった人の顔。

 私を苦しめた書類。

 家庭裁判所の建物。調停のやり取り。


 いくつにも切り取られた場面が、パシャ、パシャ、と頭の中に突然浮かびあがってくる。

 その度に私は膝を抱えて、ソファーの上で丸くなった。


 頭の中の残像が消えて薄れていくのをただじっと待った。


 落ち着きを取り戻すと、気分転換に動画を見たりする。何気ないニュースの記事などを読んだりしてやり過ごしていた。



 そんな私は携帯をスクロールするのを止めた。

(はっ!)と息を飲んだ。


「―――これは………」


 携帯の画面に見えた言葉。


『天歩艱難』


 私は文字を入力して意味を調べた。




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