第52話 仕事を失った日

 久しぶりに買い物に出かける。

 エレベーターを降りてポストを開けた。久しぶりに覗いた小さなスペースから詰め込まれた広告がパサッと床に落ちる。


(あーあ…)

 私はゆっくりとしゃがんで、それを拾う。

 ほとんどがゴミで要らないものだった。


 その中に会社の名前が書いてある封筒が混ざっていた。見覚えのる印字されたロゴに、私は慌てて封を開けた。


『澤村 瑠璃 様』


 体調はいかがでしょうか?


 ◯月◯日が、澤村瑠璃様の休職期間となっております。


 復職の前に、医師の復職許可の診断書が必要となっておりますので、◯日までに提出をお願いいたします。



(あぁ、もうそんな時期か…)


 私は悩んでいた。受診の度に受けているストレスチェックの数値は良くなる事はなく、悪い数字を行ったり来たりしている。

「体重は?増えた?」

「変わらないです」

「んー、入院レベルだよ?累衰状態」

「入院は……」

「嫌なんだよね。無理にはさせれないしな。もう、出来れば食事以外じっと横になってて欲しい」

 医師と私のやり取りは毎回同じだった。


 次の診察の日に会社からの書類を持って診察に行った。

「先生、休職期間が終了するので診断書をお願いしたいのですが」

 私は弱々しい声で医師に相談した。細くなってしまった腕、蒼白い顔のまんま休職期間が終わってしまう。


 書類に目を通し、頭をポリポリと搔き、私の方を向いて話し始めた。

「澤村さん、絶対に復職します!って譲らない方には診断書を書きますけど。澤村さんの今の状態で、僕は今は許可を出したくないなぁー」

 と、ゆっくりと語りかけられた。

 確かに体重も増えてなければ、体力も落ちてしまっている。水をケースで買っても持ち上げられないし、何かあっても小走りなんてできやしない状態だ。

 そもそも、長い時間立っている事すらできなかった。


「澤村さんなら、きっとね、仕事に復帰したらキチンとやれると思います。でも、絶対に無理をしますよね?」


(無理をしなくちゃ復帰はできない…)

 確かにその通りだった。


「澤村さん、僕は思うんですけど、命を削ってまでしなくちゃいけない仕事はないですよ!今頑張って復帰したとしても、またすぐに倒れてしまうよ?そうなると、もっとしんどいよ」

「……はい。でも、やっと掴んだ仕事なんです。試験を受けて採用されて、資格まで取ったのに、あの人のせいで仕事まで失うのが許せなくて」


 私はうつ向いた。

 涙が溢れそうになるのを、ぎゅっと手を握りしめ必死で我慢する。


「そこだよね。入るの大変だっただろうしね、裁判しながら資格も取ったんだもんね。でもね、澤村さん、試験を受けて採用されるという事は実力はあるはずですよ!ゆっくりと休んでからでも十分やっていけるはずですよ!」


 体力も精神力も奪われていた私にはわかっていた。

(きっと、今は休むべき時……)


「心の整理をする時間を少し下さい」

 とお願いをして、その日の診察を終えた。


 その日から私は1週間、母親とも連絡を取らずに家に引きこもった。食事は冷凍食品や菓子パンで済ませたり、バームクーヘンや栄養補助のドリンクをとった。


 テレビもつけず、携帯の画面を見て過ごした。

 その時、(鷹の一生)という動画が流れてきた。

 涙が溢れて止まらなくなって、何度も何度も同じ動画を眺めていた。


(よし、私もこの鷹のようになろう。)

 仕事を辞めてしまうのは、私にとってはとても痛くて苦しい選択だったから。

 けれど、その痛くて苦しい選択の先には、新しい世界が待っている。

 そう信じるしかなかった。

 私にはそれしかなかった。


 次の日、私は医師の診察を受けた。

「先生、私は鷹になります」

「ん?鷹?」

「動画で見た鷹です。私も鷹の選択と同じように、仕事を辞める事にします!仕事を手放す決心が、やっとつきました」


 私のその言葉を聞いて、医師は安堵の表情を浮かべた。


「憎しみや恨む気持ちを今は無理に消さなくていいと思いますよ。それくらい、澤村さんは頑張ってきたんですから。娘さんやお母様の為に必死で仕事をしながら頑張ってきたんですから。今は自分を甘やかして下さい」



 もちろん、先生には(鷹の選択)の意味はわからない。ただ、私がものすごい勇気を振り絞って仕事を辞める決心をした事を理解して欲しい。

 ただ、それだけだった。



 翌日、私は会社に電話を入れた。

「お疲れ様です。澤村瑠璃です」

 担当の方と話をした。今の現状をそのまま伝えると、受話器の向こうから静かな声が聞こえてくる。

「わかりました。とても良い先生に出会われたんですね?」

 と言われた。

「え?」

「よく皆さん、頑張って復職されるんですよ。入るのも大変だったりしますからね。澤村さんの担当の先生はちゃんと澤村さんを見て話をしてくださっていると思いました。他の方は診断書もすぐに書いて頂いて復職されます。ただ…」

 と、少しだけ言葉を止めた。


「やっぱり、すぐに体調崩されますか?」

 私は医師から言われてた事を口にしてみた。


「はい。中には前以上に悪くなってしまった方も私は何人か見てきましたので。澤村さんが会社を辞めてしまう事は残念なのですが、個人的には安心しています。すみません、こんな事を言ってしまって……」

「あ、いえ」

「しっかりと休んで1日も早く元気になって頂きたいと思っています」

 私には本心だと感じる言葉だった。


 それからしばらく説明を受けて電話を切った。



 1週間程して、会社の名前が入った封筒がポストに届いていた。


 必要事項を記入する。涙で濡れてしまわないように注意をしながら、私は震える手で記入をした。名札と保険証を一緒に入れて、レターパックをポストに投函した。



 外はとても寒くて、私の吐く息は白かった。

 空はどんよりとした雲に覆われている。

 私の心のようだった。


「はぁー」

 私は無職になってしまった。


 何もする気にならずに携帯を見つめていた。

 (鷹の選択)の真似をして鷹になった。


 だが、その(鷹の選択)という話はフィクションだった。


 あぁ、どこまで私はお馬鹿なのだろう。

 でも確かに私は(鷹の選択)に背中を押されたのだ。

「フィクションでもいっか……」


 私は自宅に向かってゆっくりと歩きだした。

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