第49話 闘いの終わりに

 朝目を覚まして体を起こすと、ふわふわと体が宙に浮いているように感じた。

(あー、くらくらする。)


――大うつ病性障害――。

 この病名を付けられてから、定期的に通院はしていた。お薬もきちんと服用していた。


 時計を見る。

 少しだけ余裕があるので、薬を飲んで携帯のタイマーをセットをして眠ろう。

 私の意識はあっという間に遠のいて目を覚ました。


 もう一度体を起こした。

(ダメだ。くらくらする。)

 運転するには危なすぎる。

 私は仕方なく職場に連絡を入れた。


「申し訳ございません。また眩暈がして、車の運転ができそうにありません。今日はお休みをさせてください」

 急な休みで、迷惑をかけてしまった。とても心が痛んだが、仕方がない。


 そして、母親に連絡を入れた。

(また眩暈で、仕事に行けないから休んでしまった。)

 暫くすると、母親から電話がかかってきた。


「大丈夫?瑠璃、何日か休んだら?色々と大変だったから、何日間か休みなさい。迷惑かけても仕方がないし、体が大事だよ」

「そうだね。有給あるし、何日間か使おうかな」

「そうしなさい、その方がいいよ」


 母にも娘にも心配をかけたくなかった。

 私は職場に再度連絡を入れた。


「澤村です、何度も申し訳ございません。数日間しっかり休んで出勤させていただこうかと思いまして……」

「そうですね、色々とありましたからね。シフトなどは何とか調整してみますが、医師の診断書だけ貰って来てください。それを提出すれば応援が呼べますから」

 上司には迷惑をかけてしまうのだが、体を立て直すほうが優先だ。

「わかりました!今から行ってきます」

 と言って、電話を切った。


 ふわふわとしながら、タクシーに乗り込んだ。

(点滴でも受ければ、すぐに回復するし。)

 今回は1人で病院へ向かった。

 病院に着いてしまえば、受付のスタッフさんや看護師さんが支えて下さるし。


 ベッドに横になって、順番を待っていた。

 いつもの優しい先生が様子を見に来てくださった。

「名前変わったんですね。澤村さん、今は具合どうですか?」


 私はゆっくりと起き上がった。

「あー、やっぱり少しふわふわっとしますね」


「点滴しよっかぁ」

 先生は血圧を測ったりしながら、私の様子を見ている。

「先生、数日間仕事を休もうかと思ってるのですが。診断書を書いて頂けますか?私の代わりのスタッフを呼ばないといけなくて」

 と、私はお願いをした。


「うん、大正解だね!休んだほうがいい!診断書ね、すぐに書きますよ!」


カチャカチャ……カチャカチャカチャカチャ…キーボードで文字が打ち込まれていく。


「えっとね、とりあえず3ヶ月の休職を指示します!」

 と医師は私の顔を見た。

「」さ、3ヶ月?!先生、数日間で大丈夫だと思うのですが?」

 予想外の日数に私は驚いていた。


 医師は微笑んで、私に端末を手渡した。

「これ、当てはまるもの選んでみて下さい」

 また、あのストレスチェックのようだ。


 私はポン、ポンと当てはまるものをタップして医師に渡した。

「んー、まだここにはさほど出てないね。

でもね、澤村さん。絶対嫌だ!って人なら仕方ないから数日間の休職って指示するけど。澤村さんの場合はね、1年以上無理をしてきたんですよね。車で言うと、アクセル全開に踏んだ状態でね。タイヤも磨り減ってしまうよね。だから体が信号を出しているんです。ブレーキを必死で踏んでね。ブレーキもアクセルも全開で踏んでたら、車は壊れちゃうよね?」


「私はそんなに悪いのですか?」

「澤村さん、本当は僕は入院してほしいくらいなんですよ。診察に来てくれてるけど、体重も増えないしね、頑張り屋さんな性格も見えてきたし」

 医師は私の方を向いて、目を見て言った。


「澤村さん、とりあえず3ヶ月間は仕事を休んで下さい。僕の指示です」

「……せっかく資格試験合格したんです!」

「復職すればその資格は使えますよ!」

 確かにその通りだった。

 取った資格は消えてしまう事はない。


「入院は嫌だな」

 私はぽつりと呟いた。

「では、入院は様子を見て考えましょう。とにかく、出来るだけ動かないでゆっくりと寝ていて欲しいんです」


 そんな風に医師は私の顔を見て話をしてくれる。

(先生に任せよう。)

「はい、わかりました。3ヶ月休みます。ただ、先生。ライブのチケットが当たってて楽しみにしていたのですが、ダメ?……」


 医師は微笑んで、私に聞いた。

「それを楽しみに色々頑張ったの?仕事や離婚の手続きとか?」


 私は大きく頷いて伝えた。

「そうなんです!私の唯一の楽しみなんです。チケットが当たった時は涙が出るほど嬉しくて」


 医師は顎に手を当てて、暫く考えた。

「いいよ!だけど調子悪くなったら、無理せず帰って下さいね!」

「はいっ!」

「じゃあ、点滴してゆっくりと休んでから帰って下さい。診断書は帰りに受け取って下さい」

「ありがとうございました!」


 私はベッドに横になり点滴を受けていた。


(はぁー、3ヶ月かぁ。でもな、確かに尋常じゃない経験をしたんだもんなぁ。犯罪者からお金を請求されるなんて、聞いた事ないもんなぁ。)


 長かった闘いは、私から沢山のものを奪っていった。そして、私の健康までも奪っていった。


 点滴を終えると、やはり少しだけ体が落ち着いた。

支払いを済ませてタクシーに乗って自宅に戻って、職場に連絡を入れた。


「すみません、3ヶ月の休職指示が出ました」

「3ヶ月?澤村さん、そんなに調子悪かったの?無理してたのかなぁ。そりゃ、無理しなきゃダメだったんだろうねぇ」

 心配そうに上司には言われた。


「無理しないと立っていられませんでしたから。暫くご迷惑おかけしますが、宜しくお願いいたします」

「ゆっくりと休んで下さい。手続きはこちらでやっておきますから!ねっ?」

「ありがとうございます」


 まだその時は大丈夫だった。私はしっかりと立っていたのだから。

 でもそれが、その上司との最後のやり取りになってしまった。



 仕事は休職になったが、3ヶ月の休職には色々と手続きが必要だった。離婚の手続きの書類等もどんどん届いてきて、それを記入して提出する。


 ライブは何とか行けた。

 電車には乗れずに、タクシーで往復した。体力を減らさぬように、静かに見て楽しんだ。


 そして、私の体力は少しずつ少しずつ落ちていった。診察に行って、いつものように端末を渡されて、当てはまる物をタップしていく。タップする内容が少しずつ変わっていくのが自分でもわかった。



 3ヶ月の休職期間があと1ヶ月を切った頃、医師は私に質問をした。

「澤村さん、休職は最高どれくらいとれますか?」

「私はまだ、全部で半年しか取れません」

「あと3ヶ月延長しましょうか」

「はい。職場の担当の方に連絡します」


 素直にそう答えるしかなかった。

 その時の私は、仕事を休んでいるのに体重も増えず、食欲も落ちて、色々な気力を失っていた。

(これからどうなってしまうのだろうか。)


 その頃、PTSDで苦しんでいた娘に仕事が舞い込んで来た。暫く出張してほしいと頼まれたようだ。


「お母さん、私、出張行きたい。私が出張の間私の部屋で生活してくれる?オッドの事見ててほしい」

 とお願いされた。


(娘が前に進もうとしている。)

「延長はなしで会社にはお願いしてくれる?お母さん、体力ないし。おばあちゃんにも手伝って貰わないと無理かもしれないし」

「うん、ありがとう!」


 娘は嬉しそうに笑った。

 少しだけ環境を変えたかったのかもしれない。

 私は今、仕事もできない状態だし、留守番くらいなら出来るだろう。

 娘の為になる事ならば、私がやらなければならない。


 娘は大きなキャリーバッグを引きながら、出張へ出掛けた。私は少しだけの着替えを持って、娘の部屋で生活をする。


 ただ、そこに居るだけ。

 母親が食事などを運んで来てくれて、助けて貰った。夜はオッドと一緒に眠った。


(あぁ、久しぶりのオッドとの夜だ。)

「オッド!」

「にゃーん」

 娘ではなく私がいる事を不思議に思っているのだろう。暫くは、どうしていいかわからないようだった。


 それは私も同じだった。

 お互いに遠慮しながら、久しぶりの同居生活を送った。


「オッドー!」

「にゃぁぉ」

 私とオッドは秘密の会話をたくさんした。

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