第48話 手続き

 調停が終わったからといっても、清々しい朝が私を迎えてくれるわけではなかった。

 何も変わらない重い体を起こして、いつもより少し早く起きた。

 軽く食事を済ませて、私は駐車場へと歩いていく。


 昨日の家庭裁判所で受け取った、大切な書類を両腕で抱えて。


(1日でも早く名前を変えなきゃ!)

 それが私の願いだったから。

 車に乗り込んで、シートベルトをカチッと締めて車を走らせた。


 職場と反対の方向へ向かって。

 役所は少し混んではいたものの、私の目的の場所は空いていた。



「この書類で離婚の手続きをお願い致します」

 受付の方にお願いをする。


 若い女性の方だった。

 用紙を暫く確認しているが、よくわからないようだ。

「すみません、仕事があるので少し急いでいます」

と、お願いをした。

「少々お待ちください」


 私の提出した書類を初めて見たのであろう。

 先輩らしき人にバトンタッチされた。

「お待たせいたしました。こちらの部分にお名前のご記入をお願い致します。戸籍の変更もされますか?」

「はい」


 あと何回書けば終わるだろうか。


――細田瑠璃。

 私は名前を書いて、印鑑を押した。

 もうこの印鑑を使う事もないな、と思いながら。


「澤村さん、澤村瑠璃さん」

「はい」

(細田じゃなくなった!)

 心がほんの少しだけ楽になった気がした。


「お待たせ致しました。これで手続きは完了となります。支援措置は出されてますか?」

「はい。それと、名前が変わった住民票や戸籍謄本が必要なので申請できますか?」


 会社や、運転免許証や保険、車の名義変更などに必要だった。

「それでは、こちらにご記入お願いします」


 そういって渡された用紙に住所や名前を書く。

 澤村瑠璃。

 懐かしい名前だ。

 これから私は、澤村瑠璃として生きていく。もう二度とこの名前を変える事はないだろう。


「番号が呼ばれるまでお待ちください」

「ありがとうございます」


 役所の中は混んでいたので、邪魔にならない所に立って待っていた。

 長く辛かった日々が甦ってくるのを必死で我慢した。


(あぁ、私はまた戸籍にバツがつけられたのか。まさかバツ2になってしまうとは思わなかったなぁ。情けない。)


 そんな感情も確かに心には残った。

 未練や寂しいなどではなく。

(情けない。)


 一度ならまだしも、二度も私は間違えた。

 そのせいで大切な娘を傷つけてしまった。

 だけど、(犯罪者の嫁)ではなくなった。

 私はひとつ荷物が下ろせたのだ。

 一番重くて堪らなかった荷物を下ろした。



 一通りの手続きを終えて、車に乗り込んだ。そして、家族のグループラインで報告をする。


「離婚届提出しました。

澤村瑠璃に戻りました。これから色々名前を変える手続きがあるけれど」


「お疲れ様」

 と母親から返事がすぐに届いた。


 娘は仕事中だったので、すぐには返事は来なかったけど。

 長い長い闘いは、終わった。


 シートベルトをカチャっと締めて、私は車をゆっくりと発進させた。


(さて、仕事だ!職場で名前の変更の手続きの申請をしなくっちゃ!)


 やっぱり私の頬を涙は静かに溢れて落ちる。

(終わったー。)

 と、今度は安堵の涙だ。



 そして職場に到着した私を、なぜか上司は笑顔で迎えてくれた。

「おはようございます!」

「おはようございます!細田さん、資格試験合格の通知が届いてますよ!」

 と、声をかけられた。


 私は辛い日々の真ん中で、必死でもがきながら勉強をして、試験を受けていた。

「えっ、あれ合格してたんですか?」

「はい、おめでとうございます!やりましたね!」

 と上司は親指を立てて祝福のボーズをして、優しく微笑んでくれた。

「ありがとうございます!えっ!やったぁー!やりましたー、私!」


 私は慌てて制服を着て、パソコンで確認をする。

(あ、ほんとだ!合格だ!)


「色々大変な中でも、よくやったと思いますよ。ホントに頑張りましたね」

 上司は珍しく私を誉めた。

「はい!ありがとうございます。そして、名前も今日から澤村に変わりました!」

 私の顔はよほど嬉しそうな顔をしていたのだろう。


「あら、良かったじゃないですか!今日は良いこと尽くしですね、チョコレート買ってお祝いしますか」

 と上司はニヤリと笑う。


 この上司は、優しいのだがちょっとクセがあって、そこだけが面倒だった。私が買って置いているチョコレートをちょいちょい食べられる。気がつけばいつも減っている。

「私のチョコ食べました?」

「何の事でしょう?冷蔵庫のパイの実なら食べましたけど?」

 と、とぼけた顔をしている。

「そのパイの実は私のですよ!名前が大きく書いてあるでしょ?」

 と、私は幾度となく言ってきたのだが。

 いつも、スーッとどっかへ行ってしまうのだ。



「今日は私に買ってくれるんでしょ?」

 と私は駄目もとで聞いてみた。

「あ、名前の変更の申請をしましょうね」

 と、またいつものように姿を消した。


(あれはー、買う気はないな。)

 と諦める事にした。


 でも、嬉しかった。あんなにボロボロになりながら受けた資格試験に合格できたなんて。その日の休憩時間は少しだけ贅沢なご飯にした。デザートにプリンもつけた。


「細田さーん!」

 まだ暫くはそう呼ばれながら、私は相変わらずバタバタと仕事をしている。


 車の名義変更の書類、銀行口座の名前の変更、免許証の名前の変更、クレジットカードの名前の変更。

 休みの日は、手続きに走りまわっていた。



 そして、会社での名前の変更の手続きが終了して新しい名札が私に届いた。


《澤村 瑠璃》

 私はすぐに名札を変えた。

 そして、スタッフに挨拶をしてまわる。

 いつも通りだが、少しだけ違う挨拶。


「おはようございます!今日から澤村に変わりました。宜しくお願いします」

 皆が遠慮がちに聞いてくる。

「えっとー、り、離婚かな?」

「はい!離婚しました!」

 私はとびきりの笑顔で答えた。


 暫くは皆がよく私の名前を間違えて読んでしまうのだけれど。

 私はそれでもまぁ、良かった。

 少しずつでも『澤村さん!』と呼ばれるのが心地よくなってきたし。



 そしてまた、休日がやってきた。

 まとめて色々と手続きをして忙しく、バタバタと動きまわった。


(あー、終わった。とりあえず。あとは、返送されてくるのを待つだけだ。)


 久しぶりにのんびりとお風呂に浸かって、早めに布団に入る。

(あー、疲れた。)

 その日はいつもより少しだけ早く眠った。


 翌朝、起き上がった私の体には、また異変が起きた。

(あー、また、これだ。)

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