第47話 悪事の末路

「失礼します。あのー、細田勇二さんの弁護人さんが、弁護士同士でお話をしましょうと仰っています。ご本人様は抜きでとの事ですがよろしいでしょうか」

 調停委員さんが声をかけに来られた。


「え、あ、はい。では行きます」

 とふたりの弁護士さんは待合室から出ていった。


 そんなに広くはない部屋に椅子がたくさん並べてある部屋で、私はひとりポツンと座っていた。

 ふと、自分の足元を見る。

 事件を初めて知った夜、警察署で娘の事情聴取を待っていた。その時と同じ靴を履き、黒いパンツを履いて待っている。


(あの時と同じだ。)

 あの事件が発覚してから1年が過ぎた。

 長い長い1年。


 まだ、私は犯罪者の妻のままだ。

 まだ、私は変わらずにここに居る。

 何で一歩も動けていないのだろう。


 今でもはっきりと覚えている。

 帰宅した時の、涙を流した娘の表情も、苦しそうな母親の表情も。

 今でもはっきりと覚えている。

 突然の娘の告白に言葉を失い、とても落ち着いた状態で警察に電話をかけた時の自分の事を。


 娘の裁判も終えたのに、何故まだ私はこんな所に居るのだろうか。


 悪いのは犯罪者なのに。

 1年たった今もお金まで請求されて、話し合いが長引いている。


 あの日も履いていた靴がくたびれていた。

 踵は磨り減り、小さなキズがたくさんついている。


(全部終わったら、この靴は捨てて新しい靴を買おう。)

 そんな事を考えながら、私は誰もいない待機室で弁護士さん達が戻ってくるのを待っていた。



 暫くして弁護士さん達は戻ってきた。

「お待たせ致しました」

 少し疲れていらっしゃるようだ。

「いやぁ、もうね、さすがに僕も苛々としてしまいました。調停委員さんもちょっとびっくりするくらい声を荒げてしまって」

 と、額の汗をハンカチで拭いている。


 一緒にいる若い女性の弁護士さんも、何とも言えない緊張感のある表情を浮かべている。


「そんなに酷い方なんですか?」

 私は恐る恐る尋ねてみた。


「いやぁ、酷いってもんじゃなくて。調停委員さんは、やはり年齢的にも我々よりも先輩なので。それなりの言葉や態度で接するべきだと思うんですけど」


 どうやら、あちらの弁護人は調停委員さんに対しても、私の弁護士さんに対しても、偉そうに上から物を言っていたそうだ。


「さすがにちょっと疲れました」

 と、苦笑いをしてお茶をゴクリと飲んでいた。ベテランの弁護士をも困らせる弁護士って……よほど頭がキレるのか、もしくは常識からハズレすぎているのか……。


 暫くして、また私達は呼ばれて移動をする。

 ふらふらとする体を気力だけで動かして、部屋を移動した。


「先ほどは大変でしたね」

 調停委員さんも、さすがに労いの言葉をかけている。


(どれ程大変だったのだろうか。)

 私は恐ろしくなっていた。


「えっとね、結論から言うと、相手方が条件を飲みますとの事です。慰謝料の金額も、前回よりも下げて頂いてますし。細田瑠璃さんも悔しい気持ちを堪えてね。よくこの条件を出して頂いたと思います。

弁護士さんと話し合いをして納得していただいて感謝します。ただ、一括で全ては払えないので一部は一括で支払いをして、残りは分割で支払いますとの事です。細田瑠璃さん、これでよろしいでしょうか?」

 と、最終の確認をされた。


「はい、大丈夫です」

 私は震える声で返事をした。


「それでは、別の部屋で裁判官との読み合わせがありますので、暫くお待ちください。本来はご夫婦揃ってするものですが、接近禁止命令が出ておりますので、別々に行います。あと少しだけ、お時間を下さいね」

 男性の調停委員さんから伝えられた。


「娘さんの事も心配でしょうし、お辛かったですね。本当は慰謝料の金額なんて決めれるような事ではなかったと思うのですけど。娘さんの力になってあげてくださいね。体を大切にして、少しずつでも前に進んで下さいね」

 女性の調停委員さんは、少し辛そうな表情で私に語りかけて下さった。


「本当にありがとうございました」

 私は感謝の気持ちを込めて頭を深く下げた。


 部屋を出る時、男性の調停委員さんが声をかけて下さった。

「強く生きて下さいね」

 その言葉は私の心の奧にずーんっと響く。

(そうか、これからまた始まるんだ。)

 と、私は気付かされた。



「ありがとうございます」

 私は涙でぐちゃぐちゃの顔でもう一度お礼を言って、頭を下げた。



 きっと、給料明細を労基に調べられる事は社長にとって不利だったのだろう。偽造した書類でお金を請求して、詐欺罪になって実刑になるのが怖かったのだろう。そんな詐欺罪の原因を作ってしまったら、弁護士としても危なくなるからだろう。

 弁護人としてのいい加減な所を突かれて、弁護人も閥が悪くなったのだろう。

 前回よりも下げられた慰謝料に納得するしかなかったのだろう。

 それで、調停委員さんや弁護士さんに悪態をついて声を荒げられたのだろう。





 裁判官が決定事項を読み上げている。

 犯罪者の弁護人はソワソワとして急いで帰ろうと、何度も何度も椅子から立ち上がろうとしている。


(何だこいつ。)

 初めて見た瞬間からそう感じた。


 弁護士として、いや、大人としての落ち着きは全くない。裁判官の読み上げはきちんと最後まで聞かなければならない。


「あのー、次があるので」

 また立ち上がろうとする。


「先生、まだ終わっていません!きちんと最後まで座って聞いて下さい!」

 と、裁判官に何度も何度も注意を受けていた。



(こんな奴にも"先生"と言わなければならないのか?)

 私はチラリと軽蔑の目を向けた。


 その後も何度も注意をされて、私には大事な内容が一切入って来なかった。


 その弁護人は最後はバタバタと小学生のように走って部屋を出た。私には逃げているようにしか見えなかった。



 だけど。

 私にはそんな事はどうでも良かった。

 とりあえず、長い長い闘いは終わったのだ。

 私は書類を受け取り、今後について説明を受ける。

 受け取った書類を持って役所に行けば、私の名前だけで離婚届は受理されるそうだ。


(あぁ、良かった。)


 一括で払えない残りの慰謝料が分割になった。本来ならば、お互いの弁護士が間に入るのだが、犯罪者の弁護人はそれを拒否した。

(めんどくさいでしょ?)

 と発言をしていたようだ。


 異例だが、私の弁護士さんの所に直接振り込む事になったようだ。私の弁護士さん達は、どこまでも優しく強くきちんとしてくださる。

 まぁ、それが本来のあるべき姿のはずであろう。


 犯罪者の弁護人は最低だった。

 犯罪者も調停が終わった瞬間、弁護人から放り投げられたのだろう。

(ざまぁみろ!)

 心の中で吐き捨てた。



 家庭裁判所を出て駅の前についた。

「私共は、これから手続きの準備がありますので、ここで失礼致します」

「本当にお世話になりました。これからも、暫くの間どうぞ宜しくお願いいたします。本当にありがとうございました」


 もうこんなに深く頭を下げる事はないだろう。

 これが最後のはずだと思いながら。

 感謝の気持ちを込めて、深く深く頭を下げてご挨拶をして別れた。



 階段を降りると、やはり生ぬるい風が私を通り過ぎる。汗を拭いて、鞄からペットボトルを取り出してお水を飲んだ。


(やっとだ。やっと終わった。)

 本当は慰謝料も納得なんてしていなかった。

 ただ、早く終わらせる為だった。

 ただ、犯罪者の妻をやめたかった。

 ただ、娘や母親を少しでも安心させてあげたかった。

 ただ、それだけだった。



 悔し涙なのか、安堵の涙なのか。

 電車に揺られながら涙を溢していた。

 家にたどり着くまで私の涙は止まらなかった。


 明日からまた、忙しい日々が始まる。

 役所へ行き、離婚届を提出して名前を変える。

 職場の名札も銀行のカードもキャッシュカードも、免許証も、借りてる部屋や駐車場も、車の名義変更も。

 やらねばならぬ事が山のようにあった。それでもほんの少しだけ前に進めたのだ。


 帰宅して、娘と母親とのグループラインで報告をした。


「やっと終わりました。無理やり終わらせました。心配おかけいたしました」


 すぐに既読がついて返事が帰ってきた。

 母親は、

「長い間、お疲れ様」と届いた。


 娘からは、

「良かったね」と届いた。

 全然良くないはずなのに、娘はそう言うしかなかったはずだ。


 これで私は手続きを済ませて、やっと前に進める!

 そう思っていた。


 悪い事をしたのはあいつなのだ。

 なのに、どうして私はいつもこうなってしまうのだろうか。


 新たな苦しみが、少しずつ少しずつ私に近づいてきていた。

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