第45話 病院

 いつものように重たい体を起こした。

(よしっ。)

 私は立ち上がり、顔を洗いに行こうとした。


 体がふわふわとしていてる。

(何、これ?)


 まっすぐに歩けない。

 慌てて壁に手をついた。

 眩暈?いや、わからない。何これ?

 ちょっと座っているとすぐに治まった。


(あー、怖かった。何だったんだろう。)

 と思いながら、もう一度立ち上がった。


 やっぱりダメだ!何だかふわふわとしてまっすぐに歩く事が出来ない。


 すぐに時計を見た。

 まだまだ出勤時間まで余裕はある。

(でも、運転するのは怖いなぁ。)


 私は母親に電話をかけた。

「何だか体がふわふわする」

「え、大丈夫?今日仕事?」

「うん、仕事」

「危ないから休みなさい。今からそっちに行くから、病院行こう」

 と母親に言われて、そうする事にした。


 職場に電話を入れる。

「細田です。お疲れ様です。今日ちょっと体調悪くて、車の運転が出来そうにありません。申し訳ないのですが、お休みさせてください。とりあえず病院へ行ってきます」

 と、伝えた。

 これまでの私の事情を知っている上司は急遽私の代わりに出勤しださった。迷惑だけはかけたくなかったのだが、どうしようもなかった。



 暫くして、近所に住む母親がやって来た。

「食事は?」

「出来ないや」

「病院行こう!」

 と母親に支えて貰いながら病院へ行った。


 血液検査や耳の検査もして貰ったが、原因はわからなかった。

「疲れてるのかなぁ。かなり痩せてるね、体重は?」

 など、話をして点滴をして貰った。


「念のため明日までは休んで下さい。また同じような症状が出たら受診して」

 と言われて帰宅した。


 母親は心配そうに暫くいてくれたが、寝る部屋もないので帰宅した。今までなら一緒に過ごせたのに…と母親も辛そうな表情をしている。

「何かあったら、電話して!」

 と飲み物や、プリンなどをたくさん置いて帰った。


 医師の指示通り、翌日も仕事を休んだ。

(あー、せっかくの有給が。)

 まぁ、仕方ない。


 食欲はないのだが、母親が買ってきてくれたプリンやパンを食べてのんびりと過ごした。


 母親は

「疲れが出てるんだよ、ゆっくりと休みなさい」

 と、メールをくれた。


 布団の中でネットサーフィンをする。

 すると、懐かしい景色のライブ配信に出会った。

「あっ!」

 ひとりきりの部屋で思わず声を出してしまった。



「時期がずれているから、太陽が沈んでいく場所も少しずれてますけど」

 と、配信しながら喋っている。

(あー、でも、綺麗!)

(素敵ですね。)

(どこですか?)

 と、コメントがどんどん流れていく。



 私には一瞬でそこが何処なのかわかった。

 それは、私が大好きな【光の道】が見える神社からのライブ配信だった。


 オレンジ色の太陽が少しずつ沈んでいく。

(あぁ、私が見たかった景色だ。)

 スクロールするのを止めて、暫く画面を見ていた。


「本当なら、この道の先に太陽が沈むんですけど。残念ながら、今日はズレてしまってますが。美しいですねー」

 と、ライブの映像をカメラで見せてくれている。

(凄い凄い!)

(初めて見ました!)

(あー、おじさんがちょっとー。)


 流れるコメントに邪魔されながら私はじっと見つめていた。


 太陽はゆっくりと遠くに見える島の向こうに姿を隠した。

 それでも暫くは、オレンジ色とピンク色が混じったような綺麗な空が見えた。


(色々片付いたら、有給を使って旅行でもしよう。あの、【光の道】が見える神社にもう一度行きたいな。)

 と、私はずっと考えていたから。


 今見れるとは思ってもいなかった。

 私は知らない方にコメントを送信した。

「【光の道】を見せて下さってありがとうございます!涙が出るほど嬉しいです!」


 そして、オレンジ色の空は暗くなり生配信は終了した。

(やっぱり美しい。あそこに行こう!)


 最後に行った勇二との記憶を塗り替えよう。

 そう、心に誓った。



 ゆっくりと眠ったからだろうか。次の日から仕事にも復帰した。そして、その日からも変わらず慌ただしい日々は続いていた。


 ただ、私の体には時折あのふわふわとした感覚がたまに起こっていた。

 次の休日に、念のため病院へ行った。


「んー、何か疲れてる?心配事とかある?」

 と医師に聞かれた。

 その日は1人で受診をしていて、油断をしたのだろうか。

 私の目からポロポロと涙が溢れた。

「何かありそうだね。大丈夫ですよ、ゆっくりでいいから」


 我慢していたものが一気に溢れた。

 私はある日突然変わってしまった日々の話を始めた。娘の事件の話や現在調停中である事などを聞いて貰った。


「うーん、辛いね。抱え混みすぎないでって言っても無理だしねぇ。少しね、気持ちが落ち着くようにお薬出しておくから、飲んで。でもね、決して細田さんが悪いわけではないからね。悪いのは犯罪を犯した旦那さんの方だから、自分を責めてはいけませんよ!診断書とか必要ならすぐに書くからいつでも言って下さい」

 と、声をかけて貰った。


 確かに娘が苦しんでいるのは、自分があの人を娘の父親に選んでしまったからだと思っていた。

 私が島にいる時に、家で生活している時に気づいてあげる事ができればと後悔していた。


 でも、医師の言うとおりだ。

 私は何も悪い事をしていないのだ。

 悪いのは、細田勇二なのだ。


 そして、私に病名が告げられた。

(大うつ病性障害)


 弁護士さんにメールでこの事を伝えた。


「次回の調停までの話し合いに使いますので、その診断書とお薬の説明書をメールでいいので送っていただけますか?ご無理なさらないようにしてくださいね」

 と、返事が届いた。


(病気にまでなってしまった。)

 娘のPTSDだけでなく、私までも。

 あの親子は許さない!絶対に!


 私は娘のように自宅では仕事が出来ない為に、出勤するしかなかった。ふわふわとした浮遊感にはよく襲われたが、何とか仕事には行けた。


 資格の勉強もあったし。

 こんな事で倒れてしまっている場合ではないのだから。


 なので、定期的に病院の受診は受けるようになった。そして、性犯罪の被害に遭った家族の為のカウンセリングを受けるようになった。


(頑張りすぎてはダメですよ。)

 いつも、優しく私の話を聞いて下さった。

 母親には心配をかけたくなかったし。

 娘は守ってあげないといけないし。

 私は家族の前では泣かなかったし、泣けなかった。

 いつもの車の通勤中か、ひとりきりの部屋でだけ泣いた。


 心が悲鳴をあげていたのに気付かなかったのだろう。気付かないふりをしていたのだろう。

「だから体が信号を出して教えてくれたんですよ」

 と、優しい声でカウンセラーは私に言った。


 そして私は、この(大うつ病性障害)と共に生きていく事になってしまった。

(もう荷物はこれ以上持てないよ…。)

 私は力なく笑った。

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