第44話 弁護人

「調停でお会いしましょう」

 すらりと背が高く、優しい弁護士さんがきつく言い放った言葉の返事はなかなか来ないようだった。


 久しぶりにスーパーへ行くと、小さな豆撒きセットが売っていた。買い物かごの最後に、私はそれをそっと入れる。小さな袋にシンプルな豆が数粒入っている。それが、5つだけ入っていた。


「鬼は外!福は内!」

 小さな声で1人で豆を撒いた。

 そして自分で拾いに行き、また繰り返す。

「鬼は外。福は内」

 床に転がった豆の袋を拾い、開けて食べた。


(私はひとりで何をしているのだろう。)

 涙がスーッと頬を伝い、笑うしかなかった。去年の豆撒きも同じ物を買って撒いた。オッドが追いかけて、その袋を咥えている写真が今も携帯に残っている。


 梅の花も終わりかけ、桜の花が咲き始めた。

(あぁ、もう春かぁ。)

 久しぶりに見上げた空は青く桜の花がひらりと風に舞った。

 その向こう側に飛行機雲が浮かんでいた。


 …カシャッ。

 携帯のカメラで写真を撮った。

 久しぶりに写真を撮ったかもしれない。


 その時、携帯が鳴った。

「はい、もしもし」

 弁護士さんからの連絡だった。

「漸く、離婚調停の日程の調整までこぎつけました。私共のスケジュールで可能な日時をメールにて送りますので、細田様のスケジュールが可能な日時をご確認の上、ご連絡下さい」

 との事だった。


(やっとここまできたのか。)

 それでも、送られてきたいくつかの日程は1ヶ月ほど先のものだった。


(仕方ないか。)

 私は仕事が休める日を選んで返事を送信しておいた。


「かしこまりました。その日程で手続きを進めていきますね」


 その頃の私は、仕事で資格を取ろうと奮闘中だった。これから先は1人で生きていかなければならないし、娘にも償わなくてわならない。母親だって高齢になってきている。

 私はたくさんの抱えきれない荷物をひとりで背負っていた。


 何よりも重たい、(犯罪者の妻)という荷物は早く下ろしてしまいたかった。





 白いシャツを着て、ネクタイを締める。

 苦手なパンプスを履いて、またよろよろとした足取りで駅へと向かう。

 いつもの鞄を提げて、不快なあの生ぬるい風が吹いてくる階段を降りていく。


(ピッ!)

 カードをかざして改札を通り抜ける。

 携帯の画面を見ながら、下車する駅の確認をした。


 今日は離婚調停の一回目だ。

 私の弁護士さんが、

「調停でお会いしましょう」

 と捨て台詞を吐いた、その調停の日だ。



 携帯の地図アプリを見ながら到着したのは、◯◯家庭裁判所。もちろん、お馴染みの手荷物検査も実施される。私は鞄をかごに入れて、壊れたどこでもドアを通り抜ける。


 もちろん、相手に直接会う事はない。

 特に私の場合は(接近禁止命令)が出ているため、顔を合わせることがないように他の人よりも慎重に扱われる。


 待合室の階も別のフロアに用意され、調停委員さんのいる部屋へ交互に案内されて入っていく。

(あぁ、また階段かぁー。)

 私達はその日、何度も階段を上り降りを繰り返した。



 ふたりの調停委員さんは、とても優しい方達だった。資料に目を通しながら、私の顔を見る。

「大変なご経験をされましたね。奥様の気持ちや娘さんの気持ちを考えると、慰謝料の金額なんてつけられるものでは決してないと思います。それでも、金額をつけなければならないし、私達はその金額をある程度擦り合わせが出来るようにしなければなりません」


(金額が高い。)

 と言いたいのだろう。犯罪者側の話を聞いた後だし。


 私が提示した金額は慰謝料500万だった。

 少ないくらいだとも思ったし、傷つく前の娘や私に戻してくれるのならお金なんて要らないのだから。

 娘が島で最初に被害に遭ってから14年ほど苦しんでいたのだし。普通の浮気なんかではないし。犯罪者の妻にされてしまったのだし。

 言いたい事は山ほどあるが、限られた時間の中で伝えるのは大変だった。

 口にだせなかった言葉が、ぽろり、ぽろりと床に転がり落ちて行く。

 きっとこの転がった言葉達は、交代で入ってくる犯罪者と弁護人によって踏みつけられるのだろう。



「それと、他の条件もね。あのー、相手方の弁護人が、その、ね?」

 と調停委員さんは、言葉を選びきれずに私の弁護士さんへ投げかけた。

「はい、そうなんですよ。ここでもそうですか?」

 と逆に弁護士さんは調停委員さんに質問をしている。

「はい、そりゃー。あの弁護人さんとのやり取りは、先生も正直大変なご苦労をなさっていると……」

「実はそうなんですよ。細田様の場合はもう少しこちらの意見が通るはずなんですけれど、あの弁護人が……」


(どれほど厄介な弁護人なんだろうか。)

 と、無知な私でもわかる空気だ。

 それにしても、自分で犯した犯罪が原因での離婚にここまで反発をして闘う気持ちが私には理解できなかった。


 しかも、相当な偏屈な弁護人をあの親子はよく見つけたものだ。


 結局、解決の糸口は見つからないまま、離婚調停の2回目へと持ち越す事になった。

 次回の調停の日程を決める前に、お互いの提出書類を揃える事になった。

(過去3ヶ月分の給料明細と所得証明)


 また、役所へ行かなくてはならない。そして、両方のその資料の提出と慰謝料の金額の見直しを検討するようにと言われた。


(どうせ下げられる。)

 と最初からわかっていたけれど。


 なんとも苦い、離婚調停の一回目だった。

 帰りの電車で弁護士さん達と少し相談をしながら駅へと歩いていく。

「慰謝料の金額の再計算をお任せします」

 と言って、お辞儀をして別れた。


(あぁ、憎い!醜い!)

 顔を見てぶん殴ってやろうか。

 あの家に住んでいるのだから、行って玄関の前で泣き叫んでやろうか。

 あの母親も一緒に怨みたおしてやろうか。


 私には悪魔のような考えしか浮かばなくなってしまった。

 最悪、私はあいつの前で

「お前のせいだー!」

 と叫びながら腹を切ってやろうかと考えた。



(一番辛いのは娘。)

 そうやって、何とか毎日をやり過ごすしかなかった。

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