3




 ひどく苛立たしい気分に襲われる日がある。赤ちゃんは夜十一時を過ぎても眠る様子がない。寝不足になっちゃう、不安と焦りのなかで、一ヶ月前に夫と喧嘩した際の応酬が頭を過ぎる。わたしを追い込む姑の顔が過ぎる。ここは八方塞がりだ。真っ暗な部屋で息子がおもちゃを片手に笑っている。ふと堪忍袋の尾が切れて口をついた言葉は乱暴だった。そのまま二階で暴れていると、階下に住む義弟が血相を変えて表に出てきた。その時外で一服していた夫が言うには、義弟の奥さんは眠れないと泣いているという。話の一部始終を夫の口から聞きわたしは申し訳なくなった。ここは二世帯住宅で一階に義弟夫婦が、二階に長男夫婦である私たちが住んでいる。私たちはここを出てゆくことができないけれど、階下の人たちはそれができる。どうしてここに居るんだろう?家で暴れてはいけなかったら人はどこで暴れたらいいのか。家の壁にあく穴の数が増えていく。悪い嫁だと思うけれどもわたしは正しい人間にはなれない。どこで暴れたらいい?姑の前か?お前が許せないのだと怒鳴ればいいのか。



 月日が流れ舅が入院する運びとなった。姑は広い家で一人で過ごしている。あの広い家に夜は一人で眠っているのか。考えはじめた自分に虫酸が走る。甘くて辟易する。どうして冷徹になれない。あの子のように。あの子を見てごらんよ、敵なんて本当に殺してしまいそうな冷酷さを持っている。敵が弱っても同情などしない。振り返らない。それに比べてわたしはどうだ。だいきらいでいつも厚かましい薫子が泣きながら電話をかけてきたとき。彼女の問題はわたしの問題ではないのに、まるで彼女がわたしの一部分であるかのような気さえする。これはわたしの心の弱さだ。この弱さが私の人生を台無しにしている。思えば初めから。わたしは母の思いを踏みにじることができずに苦しんでいる。


「ねえお母さん。謙虚ってなに?」


 だれもいない仏間でお線香をあげておりんを鳴らす。四十九日を終えて中有は過ぎた。母はきっと、生まれ変わる準備をしている。謙虚辛抱、母の教えはすばらしい、わたしの名前はなんていい名前、そう胸を張って言ってみたい。わたしはどうしてこんなに悲しくなる?どうして自分に価値を見出せない。


「次は優子なんて名前やめてよね」


 たとえば強子とか。安直な名前だけれど、逞しく生きれるような名を授けてほしい。優しくなんてありたくない。でもわたしはこの生き方しか教えられていない。この生き方しか望まれていない。私自身でさえも。汚濁にまみれたこの世界のなか娘には清らかでいてほしいという母の願い。戦って、人を罵倒して、たくさん泣かせてきた母は知っている。汚れていくことを。優子、汚れないで。ねえお母さん。汚れないかわりに、なにかがおかしくなっていくの。母の葬送儀礼を執り行う老僧の後姿を思い浮かべる。仏さま、この世で正しいことはなにかを教えてください。弱い人間は優しくなれないという真実をわたしたちに突きつけて下さい。私にわたしを守らせて下さい。


 清い川のなかに棲みたい。優しさなんて必要のない世界で。美しくありたかったね。お母さん。もし生まれ変わったらそんな冷たい川の中でわたしと一緒に泳いでみようよ。


 頑張って生きるよ。

 命が尽きるその日まで。なるべく謙虚でいるよ。わたしはわたしが誇れる人間でありたいから。





 終


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優子さんは改名を願う われもこう @ksun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ