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 遺影はない。市内の百貨店で購入したおしゃれでコンパクトな仏壇に、母の位牌だけを祀っている。わたしは蝋燭に火を灯し、線香を立てると香炉の手前にお土産のチーズケーキをお供えした。おりんを鳴らして合掌する。伽羅の甘い香りが鼻腔をついた。



 義理の親とうまく関係が築けないわたしは生前よく母に相談したものだった。母は決して向こうの両親を責めなかった。ただわたしに謙虚であれ、辛抱しなさいと強い口調でそう言った。0歳から受け続ける指令、優しくあれ。つまりそういう意味だと受け取ったわたしは、日々辛抱を繰り返す。そのうちわたしに息子が産まれると、舅は掌を返したように私のことを褒め称えた。感じの悪かった義理の親戚とも、子どもを通じて仲良くなれた。辛抱したから。優しくいたから。息子が産まれる前、辛抱する木に花は咲くと、よく舅は言った。それは宣戦布告だった。これからこのようなことを行います、理不尽ですがあなた達は我慢しなさい。なぜならあなた達は若いから。

 そんな舅を懐柔したものの、未だ攻略できない人物がいる。姑である。わたしたちは一見仲睦まじい義理の親子だけれども、本心は憎み合っている。こいつ殺す、その五文字を瞳に宿して、わたしたちは朗らかに笑い合っている。笑い話と認識してほしいのだけれど、たぶん、人に対する殺生禁止の法律がなければ、わたしたちのどちらかはこの世にいない。



⭐︎



 近所の精肉店でメンチカツとコロッケを買って、花の咲き乱れる広場で息子と揚げたてを食べる。晴れ渡った空を仰いで、これが幸せってことだなと思った。もうすぐ二歳になる息子は、わたしからメンチカツをひったくると、小さな手と口を使って器用に皮だけを食べている。この皮に一体どれほどの栄養があるのやら。がっかりして内心呟くけれど、息子はまだ栄養のえの字も知らない。聞き入れない。「落とさないでね」と声をかけて、わたしはチーズ入りのメンチカツを食べる。わたしの言葉をうけた息子が「オトス…オトス…」と濃い土の上を歩き回りながら何やら辺りに呪いをかけている。夜真っ暗な部屋でこの生き物と出会ったらさぞかし震え上がることだろう。


 わたしは優しくないと断言するわたしは、恐らく息子に対してだけはどこまでも優しい。夜寝かしつけるときに、この子の頭を腕まくらに乗せて寝たふりをする。すると息子は許可もなくわたしの手をとって自らの小さな手と繋いでしまう。空いた手で私の二の腕をもみもみする姿はひどく愛おしくて、これが永遠ってことなんだろうと私は思う。一瞬のなかに広がる永遠。友人たちから馬鹿にするように優しいと言われてちっとも嬉しくならないわたしが、生きるのも捨てたもんじゃないなと思える瞬間。愛している。この子だけは。



 義理の家族、友人たち、先輩、恩師。ーー掬い上げたものが掌からぼろぼろと零れ落ちるように人を嫌いになっていく。人と人のなかで自分を構築することができない。母からの命を守れば守るほど、優しくいようとすればするほど、私が私じゃなくなっていく気がする。生まれた感情をすぐに殺して理論で弔う。わたしが殺してきたわたしの心のお墓はどこにある?


 ひどく腹立たしいことがあると真っ先にこいつ殺すと胸の内で呟くのが口癖な私は決して本当の意味で優しくなんかなれないのに。優しい子でいてほしいと願う母と、優しくありたいと願うわたしは、優子という人間の感情から起因する思考の自由を認めることはない。わたしはいつまで経ってもわたしにはなれない。



 

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