第31話 まだ呼んでないよ丸顔神

 アーチの「食べられないように気をつけて」という言葉に心の中で苦笑いしながら、早津馬が「アーチちゃんも気をつけて」と答え、蛾に変身しているので蛾として部屋から脱出できる隙間がありそうな所を探すため、見つかりにくく安全と思われしかも全体を見渡せる部屋の中で一番高さのある食器棚の天板の上に向かうことにした。飛蝶に見つからないように机の足の壁側を、飛蝶が見えるであろう高さの天板の下まで這って移動し、そこから飛蝶を探すとこちらに背を向けている飛蝶を確認できた。鼠のホステス達は飛蝶の怒りを買わないように客に強い酒を飲ませることに必死なので、暗いところを選んで飛べば気づかれないと判断し、早津馬は照明が直接当たってない食器棚の壁際を、一気に食器棚の上まで飛ぶことにした。もう一度飛蝶がこちらを見ていないことを確認した蛾の早津馬は食器棚の天板の上を目指して一直線に羽ばたき、そしてその中央に静かに降りた。そして部屋全体が見える食器棚前面の端まで、這って移動した。どこか出られそうなところはないかドアから窓までじっくり見渡していくと、蛾の早津馬を捕獲する時、飛蝶が開けてその後閉めたはずの窓が少しだけ開いているのが見えた。飛蝶はずぼらな性格だった。「几帳面な性格じゃなくて助かった。ん?、馬鹿で几帳面な奴っているかな?まあそんなことどうでもいいか。あそこから出よう」そう決断し飛蝶の様子をうかがっていると、何か気に入らないあったようで飛蝶がホステスに小言を言い始めた。飛蝶の向きも早津馬が逃げる窓とはほぼ反対側を向いている。「今がチャンス!」とばかり羽ばたいた蛾の早津馬は、一直線に開いている窓の隙間に向かって飛び、部屋から脱出することに成功した。飛ぶことにあまり緊張しなくて済むようになっていた早津馬は、そのまま快適に見張り場所に向かって飛んだ。飛びながら求美がいるはずの辺りを見回したがそこに求美の姿はなかった。「何処に行ったんだろう?」求美がいないことに少し不安を覚えた早津馬は、とりあえずそばにあった電柱に止まって考えた。すぐに思い出した。「そう言えば飛蝶に空に向かって投げ飛ばされた男がいた。求美はその男をそのまま放っておける性格じゃない。きっと助けに行ったはずだ」そう推測した早津馬は「求美はそこにいる」と確信し、男が飛蝶に投げ飛ばされた方向に向かって羽ばたいた。その頃求美と華菜は早津馬の推測どおり、飛蝶に放り投げられた男を介抱し、あまり警察に通報すると自分達がマークされるおそれがあるので自然と通行人に発見されるよう、ビル前の脇道を使って中野通りと交差する角まで運び、その脇のビルの壁に、背を預けるように立てかけて立ち去るところだった。求美が男を担いで五階建てのビルの屋上から飛び降りたり、その後軽々と担いで歩いたり、更にビルにもたれかけさせる一連の動作も、華菜が黒い大きな布のように姿を変えて求美の周りを覆って隠したので人間に見られることはなかった。早津馬が飛蝶の手から逃れたところまで見て安心し、飛蝶に投げられた男を救助に向かった求美だったが、やはり大好きな早津馬が心配でたまらず、急ぎ足で見張り場所に向かった。道すがら求美が華菜に「飛蝶のやつ、私の性格を知ってるからわざと狙って屋上にあの男を投げたんだわ。この後は用済みになった客をどんどん屋上に投げると思う。そうすれば私がかかりっきりになって何もできなくなるのが分かってるから」と求美が言うと華菜が「だから私達がいるのに気づいてもかまわずそのまま悪行を続けてるのか、馬鹿なくせにそういうところだけ知恵が働くよね」と言った。ちょうどその頃飛蝶は求美の推測どおり貴重品を奪い、妖術で暗証番号を聞き出し、用なしとなった泥酔客を妖術を使って歩かせビルから連れだし、人目のないのを確認して屋上に投げ飛ばした。その少し前に屋上にたどり着いて貯水槽に止まり「ここにもいない」と思案にくれている早津馬の目の前に飛蝶に投げ飛ばされた客が放物線を描いて落ちてきた。びっくりしたもののすぐに冷静に戻った早津馬はその客を介抱しようと思い立ったが水を運んできて飲ませることさえできず、蛾の身では何も出来ないことを思い知らされ、今の自分に出来ることは「求美に知らせることだけ」と判断し、もう一度見張り場所に戻ることにした。貯水槽から飛び立ち屋上の手摺を越えた時、遠くから二人並んで急ぎ足で自分のいる方に向かってくる人の姿らしきものが見えた。同時に求美と華菜も自分達の方に向かって飛んで来る小さな蛾を確認した。街灯が点いているとはいえ暗い中、遠いところから飛んで来る小さな蛾を人間では確認出来ないが、蛾を探している妖怪にとってはいとも簡単なことだった。求美と華菜が見張り場所に着いた頃、蛾の早津馬もなんとなく嬉しそうに見える飛び方で飛んで来た。そして求美が差し出した手のひらの上に止まった。「逢えた、嬉しい!」初老の早津馬が子供のように言うと求美も「私も…」と言い、蛾の早津馬に顔を近づけた。するとそれを見ていた華菜も顔を近づけてきた。二人の美少女の顔のどアップを嬉しく思いながらもどぎまぎする早津馬だったが次の瞬間、華菜が勢いよく顔を接近させると蛾の早津馬を口に吸い込んだ。早津馬が「食べられた!」とあせった時、華菜がテレパシーで「私も心配してたんだよ、ダーリン。私の口の中にいれば絶対安全だから安心してね」と早津馬に伝えてきた。その言葉を聞いて華菜が自分を食べようとして口に吸い込んだんじゃないことが分かった早津馬だが、まだ蛾の姿でいる自分の鱗粉が甘いことを知っている華菜なので完全に信用しきれないでいると「本当に甘ーい」と華菜が口を少しだけ開けて言った。それを聞いて身震いしている早津馬に気づいた華菜が「ダーリンと私は夫婦、夫の早津馬を食べたりしないよ」とテレパシーで伝えてきた。求美もそばにいるので大丈夫と判断した早津馬は落ち着きを取り戻した。華菜が少し口を開けたので光が入り、ぼんやりだが口内が見えた早津馬は人間と全く同じ構造なのが分かり嬉しくなった。華菜の体臭が清々しいいい香りだったのを思い出した早津馬は口内がどんな香りか嗅ごうとしたが口内の空気を吸い込もうにも吸い込む器官がないのに気づいた。「そういえば今、自分は蛾だった」と思い出した早津馬は「蛾はどうやって匂いを嗅ぐんだっけ」と考え、そして思い出した。「触覚だ!ということはもうとっくに感じてるはず。感じないということは何の香りもしないということ…、吸い込まれた時気付かなかったのはそのせいか」少し華菜のことが分かって嬉しく、しかも自分が華菜の舌の上にのっていることが、人間なら誰も絶対経験できることではないので、たまらなく興奮する早津馬だった。ただ蛾の足では華菜の舌の感触がなんとなくしか分からないのだけが残念だった。華菜の舌の上でまどろんでいると、突然求美の声が聞こえた。「華菜、今度は私が早津馬を守る」と言い、交代を要求した。華菜は求美の言うことには必ず順うので「次は求美の舌の上でまどろめるのか」と早津馬はわくわくした。が、残念なことに今の状況を思い出した求美が冷静になり華菜に「アーチのこと、まだ聞いてない」と言った。その言葉で華菜も早津馬も冷静さを取り戻した。華菜が口から蛾の早津馬を取り出すと求美が受け取り、自分の手のひらの上に置いた。華菜の口内の環境をそのままひきづる早津馬をじっと見つめ求美が質問した。「アーチ大丈夫だった?」早津馬がアーチが飛蝶に捕まっていないことや、なかなかの運動神経をしていることを話した。そして続けて、客の一人がまた飛蝶に投げ飛ばされてビルの屋上にいることを話した。「やっぱりね」と言い、華菜とうなづきあった求美は蛾の早津馬を嬉しそうにゆっくり口に入れ、ビルの屋上に向かってジャンプした。華菜がその後に続いた。早津馬はなくなったと思った求美の口内でのまどろみができたことに喜んだ。そして求美の口内がどんななのか五感を発揮し情報収集した結果、求美の一部が華菜なので華菜と全く同一と当然の結論を出した。なぜか残念な早津馬だった。屋上に降り立った求美は投げ飛ばされた男を確認するとすぐに、自分の舌の上でまどろんでいる早津馬を口から出し、自分の手のひらにおいた。「何時もなら華菜よりずっと長いのに、どうしたんだろう?」と思っている早津馬に求美が息を吹きかけた。口内にいる時は何の香りもしなかったのに、今度はいい香りがした。早津馬がうっとりとしているといつの間にか早津馬は人間の姿に戻り屋上の床に立っていた。屋上なので人に見られる心配がないのであっさりしたものだった。「うっかり早津馬を口に入れたまま術を解くと早津馬が死んじゃうから急いだんだよ。もっと口の中に入れときたかった」と早津馬の心を読んだ求美が残念そうに言った。その次の瞬間、求美が飛蝶の気配を感じ「また客をここに投げ飛ばす」と言うと一人の男が放物線を描いて求美達の前に落ちてきた。華菜が「まだ介抱さえしてないのに次を投げ飛ばした」と言うと求美が「アーチ、しばらく大丈夫そうって聞いたけど、もう油断ならないわね」と言った。「丸顔呼び出そうか、どうせ呼んでもすぐに来ないスケベ神なんだからちょうどいい頃合いなんじゃないかな?」と華菜が言うと後ろから「何を言ってるのかな君は」と言う聞き覚えのある声がした。丸顔神だった。

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