第30話 あれはアーチ?

 引き出しの底板が微妙に振動していた。早津馬が蛾として底板にはりついているから分かる程度の微妙なものだった。「そう言えば、さっきから殺気だった視線を出してるわりに、多分アーチちゃんの目に違いない2つの点が動かない。なぜだろう?」そう思った早津馬は、飛ぶことに多少自信がついてきたこともあり、2つの点の近くを飛んでみることにした。引き出しの底板を離れ、羽ばたきながら反転して引き出しの先板の下を、アーチだろう鼠が前足を伸ばしても届かない距離をとって飛んでみると、暗闇の中から「ギュー」という鳴き声が聞こえた。ちょうど2つの点が見える辺りからだった。どうも早津馬を威嚇しているようだ。カチンときた早津馬が身の危険を顧みず、その鳴き声がした近くの机の幕板と引き出しの先板の間に入り、幕板にはりついて2つの点をじっと見ると、暗い中の鼠色で見えにくいがそれでも鼠のシルエットを認識できた。「蛾の視力ってこんなにいいんだな」と感心した早津馬だが、疑問がわいた。「蛾の目は複眼のはず、なんでいつもと同じように見えるんだろう?」すぐにその疑問は早津馬自身により、早津馬自身が納得できる理由付けで解消された。「求美は妖術で自分を蛾に変身させた時、しゃべれるようにしてくれた。だから視界も元々人間の俺が行動しやすいように人間の時と同じにしてくれたのだ。夜間行動なので夜目もきくようにしてくれてる。きっとそうに違いない」求美の気配りに感謝しながら、求美の妖術の能力の高さに感心する早津馬だった。一向にアーチらしき鼠が襲ってくる様子がないのでもう少し近づいてみると、アーチ以外の鼠ではあり得ない、トランシーバーをアーチの体に固定している白い包帯の黒く塗りきれてない白い部分を確認できた。「アーチ、確定」早津馬は最初の関門をクリアした。そして引き出しの底板がなぜ微妙に振動していたのか、その理由も判明した。引き出しの先板が壊れていて一部が内側にずれ込み、机の幕板との間隔が広くなっているところにアーチがいて、包帯で体に固定しているトランシーバーが引き出しと直接当たって共振するのを避けるため、引き出しに直接はりつかず、超小型とはいえアーチにとってはそこそこ重いトランシーバーの重みに耐えながら、自分ともども落下しないように、背中を幕板に足を先板に当てて突っぱって足4本をぷるぷるさせていたからだった。早津馬はアーチがなぜこんな体勢を取っているか疑問をもたず、ゆえに自分のせいだと気づくことも当然なく、ただ「このきびしい体勢からいきなり俺を襲うことはできない」とだけ考え、安心した早津馬が這いながら近づくとアーチがまた「ギュー」と鳴いた。静寂の室内ではないので飛蝶に気づかれることはないと思う早津馬だが、飛蝶に変身させられてはいるが元々アーチと同じ鼠だったホステス達が、同じ種ならではの敏感な反応をしないかが心配になった。早津馬が急いで小さな声でも聞こえる距離まで近づくと、鼠のアーチの顔が何となく見えるようになった。「アーチちゃん」と声をかけると、鼠で無表情のはずのアーチがキョトンとするのが分かった。早津馬が「姿は蛾だけど早津馬だよ」と続けたが、それでもアーチはまだキョトンとしたままだった。なので早津馬が更に「アーチちゃんとの交信が切れたまま連絡がつかないからみんな心配して、だから俺が潜入するって言ったら飛蝶に見つからないように、求美が俺を蛾に変えてくれてそれで様子を見に来れたんだ」と続けるとアーチがやっと状況を飲み込めたようで「求美さんのこと呼び捨てにしてる。うらやましいな」と言った後「早津馬さん飛蝶に捕まってたでしょ。危なかったですね」と言った。早津馬が「見てたんだ」と言うとアーチが「早津馬さんだって知らなかったから普通に見てましたけど、知ってたら…」と言ったので早津馬が「知ってたら?」と聞くと少し考えた後「残酷なシーンになりそうだったら目をつぶりました。見ないように」と言った。早津馬にとって残念な答えだったので黙っているとアーチが「私も命が惜しいですから。まだ誰とも結ばれたことないので…」と言った。「そうだよな、飛蝶のあの凄い能力を見せつけられたら、他人のことより自分の身を守ることが先決だもんな」と早津馬が言うとアーチが「早津馬さんのこと他人だとは思ってないですけど、すみません」と恐縮したように言った。早津馬が「気にしなくていいよ。みんな自分の命が大事なのは当然だから。それにしても蛾にしてもらったまでは良かったけど、考えが浅かった。アーチちゃんに食われるかと思った」と言うとアーチが「蛾は私の好みじゃないので食べないです。確かに美味しそうな匂いがしましたけど…。さっきは飛蝶の手先かもしれないと思ったので、口が届くところまで来たら噛み殺そうと思っただけです」と言った。早津馬が「やっぱり危なかったか」と言うとアーチが「早津馬さんなら私の口元に飛んで来るようなヘマは絶対しないはずですから、危なくはなかったですよ」と言った。早津馬は「鼠と蛾が人間の言葉で会話してる。アニメみたいだな。不思議な気分」と心の中で思った。早津馬が「そう言えば交信が切れた時、飛蝶に見つかったんじゃないかって求美が心配したけどどうだったの?」と聞くとアーチが「多分、飛蝶は私が窓の外から見てると思ったんじゃないですか。全部の窓を確認してましたから。だから私はその間に最初いた隣の家具からここへ安全に移動できました」と言った。「それからずっとその姿勢じゃ大変だね」と早津馬が言うと、アーチが少しカチンときたようで何か言おうとしたその時、誰かが、アーチと早津馬が奥に潜んでいる机の引き出しを引いた。早津馬は机の幕板にはりついていたので、引き出しを引かれても身の危険を感じることはなく、ついスライドしていく引き出しを見てしまい、アーチが危険な事態に陥ったことに気づかなかった。だがすぐにきびしい体勢で落ちないように頑張っていたアーチのことを思い出し、どうなったか心配になり慌ててアーチがいた辺りを見ると、引き出しの先板の上端に前足を伸ばした状態でかけ、後ろ足を先板に当てて突っ張り、トランシーバーを先板から浮かして器用に耐えているのが見えた。引き出しを引かれた時、猫のように瞬間的に体をひねって足を幕板に向け、更に幕板を蹴ってスライドしていく引き出しの先板に飛び付き、前足を先板の上端にかけたようだ。「さすがアーチちゃん。見事な反射神経」と早津馬が小さな声で喝采すると、アーチが「この体勢、かなりきびしいです」と答えた。体全体がぷるぷるしていた。引き出しは少し引かれただけで止まった。鼠のホステスが客に言ってる内容から、客が遊び半分に引き出しを開けようとしたのでそのホステスが止めたが、間に合わず少し引き出されたようだった。ホステスが客を元の席に戻したが引き出しは戻されなかった。アーチが「もう限界です」と言った。そして落下した。「万事休す、飛蝶にバレた」早津馬がそう思った瞬間、ラッキーなことがおきた。アーチが床に着地するタイミングぴったりに、さんざん飲まされた客が酔いつぶれて気を失い、テーブルに上体を打ちつけたのだ。結構な音がした。アーチが身を守るため足を下に落下した時、当然足を突っ張りきれずトランシーバー本体が床に当たり、そう大きくはないがそこそこの音が出た。客が音を出さなければ飛蝶に気づかれたろうから本当にラッキーだった。アーチは多少痛かったようだが身体的ダメージはなく急いで机の壁側の足と壁の間に身を隠した。早津馬の「またここまで戻って来る」という読みと違ってアーチは危険を承知でその場にとどまった。体力的に限界だったからだ。いつまでも上がってこないので、アーチと話をするため、早津馬がアーチのいる所へ飛んだ。そして早津馬が「これからどうするか求美と直接話さないと…、トランシーバーだと伝わりきらない可能性があるから戻るね」と言うとアーチが「分かりました。食べられないように気をつけてくださいね」と笑顔で言った。

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