第29話 早津馬あっさりと…

 あまりに突然な飛蝶の出現に、人間の早津馬なら驚きのあまり心臓が止まりかねないところだったが、蛾に変身していたからか止まらずにすんだ。飛蝶と自分の間に窓ガラスが1枚あることも少し安心できる要素だった。しかし飛蝶が突然、蛾の早津馬の前に顔を出したのは、求美が自分を監視しているのに気づいた直後に飛んで来た蛾なので、その正体を見極めるためだった。なので非常に危険な状況にあったのだが、当の早津馬はそのことに気づく心の余裕をなくし、あまり間をあけずに二度も日常では有り得ない、目の前の視界が目だけという特別な状況に遭遇したことで、ある種の興奮さえ覚え、更に飛蝶のエメラルドグリーンの目が至近距離で見ると深淵なのに透明で、目の奥まで見たいと思わせ、見ようとすると引き込まれそうになる魅力的なものなのに気づかされていた。飛蝶が早津馬の蛾を求美の手先かどうか見極めようと、眉間にシワを寄せ魅惑的だった目を眼光鋭いものに変え、蛾の早津馬を凝視した。その顔は早津馬が今まで見てきたホラー映画とは一線を画した本物ならではの凄みがあり、早津馬は恐怖で全身が凍りつき感覚をなくし、足先が震えだし窓ガラスへのはりつきが消えた。そのとたん窓ガラスを離れて落下していく自分を感じた早津馬だがなぜか羽根を動かして飛ぼうとしても羽根が動かず飛べなかった。このまま落ちていくのかと思った瞬間、何かに体をつかまれた。つかみ方が求美と違って優しさがなく激痛が走った。もう少しで声が出そうになったのをこらえた早津馬が、空いている目の前の空間から自分がどんな状況におかれているのか確認すると、少し先に飛蝶の顔が見えることからつかんでいるのは飛蝶の手で、閉まっていた窓が開いていることから目にも止まらないスピードで窓を開けて手を出して自分をキャッチしたことが分かった。華菜の言うとおり飛蝶は凄い妖怪だった。早津馬の蛾を見やすいようにつかみ直した飛蝶は、自分の息がかかるほど顔に近づけてじっくり観察した。しかし早津馬を蛾に変身させた求美の妖術は完璧で飛蝶に見破られることはなかった。早津馬もつかまれている痛みが時間経過で多少麻痺してきて余裕ができ、同じように飛蝶の顔を観察できた。飛蝶の顔の肌は白く滑らかそうで、フェロモンを感じさせるいい香りがした。ピンチ状態なのに「これは男が放っておかないはずだ」と納得する早津馬だった。求美と華菜が路上の見張り場所から視力と聴力をマックスにして飛蝶と蛾の早津馬の様子を見ていた。その横を求美と華菜の存在に気付けない変身させられただけの普通の鼠のホステスが、何処かで見つけてきた泥酔客を連れて通り過ぎ、飛蝶のいる部屋を目指して非常階段を上がって行った。そしてその後、ホステスと客が飛蝶のいる部屋に入ったと思われるタイミングに合わせ、窓際にいた飛蝶がドアの方を見るように振り向いた。早津馬がおとなしくしていたせいか振り向いた時、飛蝶の早津馬をつかんでいた指の力が弛んだ。「今だ!」早津馬はその瞬間を逃さず全力を集中し、蛾の早津馬を動けなくしていた飛蝶の指をすり抜け逃げることに成功した。落下しながら羽根に「飛ぶぞ」と命令すると今度は飛べた。飛蝶が首を戻し蛾の早津馬をちらっと見たが、再び捕まえようとはせず窓を閉めてターゲットの泥酔客に愛想笑いを見せながら近づいて行った。逃げてはみたものの飛蝶が捕まえに来たら、絶対また捕まってしまうことが分かっていた早津馬はお客に感謝した。とりあえず目についた食器棚の天板に向かってふらふらしながら飛び、何とか降りることができた早津馬は天板の端まで這って行った。そしてアーチがいそうな所を探した。するとドアの近くに元々置いてあっただろう机が目に入った。「隠れられそうなのは自分が今のっている食器棚とあの机か…、食器棚は頻繁にグラスをとりに来たりするだろうから見つかる危険が高い。とするとあの机にいる、間違いない」そう確信した早津馬はまだ思った通りに飛べないので、飛蝶の視線から外れていて机にも近い方の天板の端まで這って移動し、床面に向かって滑空した。今度は思った以上に飛行をコントロールできた。きれいに床に降りることが出来た蛾の早津馬はそのまま床を這って机の下まで移動した。見上げると机の引き出しの底板が見えた。きれいに滑空できたのと、小さい頃から何でもすぐ出来た早津馬なので「なんか普通に飛べそう」な気がしてきて、思いきって引き出しの底板まで羽ばたいてみると、ほぼ思った通りに飛べ、引き出しの底板の直前で反転してはりつくことに成功した。早津馬が「やった!」と心で思い高揚感に浸っていると、急に何処からかの自分への視線を感じた。「まさか飛蝶!」そう思い緊張しながら周囲を見渡すとそれは引き出しの奥からだった。早津馬が注意深くそこを見ると、暗闇の中に光る2つの小さな点が見えた。「間違いない、あれはアーチの目だ!」そう確信した早津馬だが、異様な殺気を感じた。早津馬はピンときた。アーチが自分を襲おうとしている。「自分が蛾に変身しているのをアーチは知らない、危険だ」早津馬の背筋に寒気が走った。「そう言えば求美が俺の鱗粉を褒めた時、華菜が甘い種類の蛾じゃないかって言ってたな。二人はテレパシーでつながっているから求美がそう感じてたってことだ。アーチは鼠だから嗅覚でそれを感じて、本能で俺を食べようとしている。こうなることが予測できなかった俺は馬鹿だ。飛蝶のことを馬鹿呼ばわりしてる場合じゃなかった」早津馬がそう反省していると、いつの間にか飛蝶が食器棚の前に立っていた。何かが指についていると舐めてしまういつものクセで、蛾の早津馬の鱗粉を舐めて美味しいと思った飛蝶が、早津馬の蛾が飛んで行った先の食器棚の前まで移動して、その蛾を探していたのだ。しかしそれ程執着心はないようで「甘ーい、ちょうどいい甘さ。あの蛾いける。子供達のお土産にすれば良かった。探して探せないことはないけど、まあいいか」と食器棚を見ながら言った後、キャッチしてきた泥酔客の相手をしている鼠のホステス達に指示するため戻って行った。「見つかったら間違いなく飛蝶のマンションに連れて行かれて子供達に遊ばれ、最後は…。あきらめてくれて良かった」としみじみするはずの早津馬だったが、その暇はなかった。その前にアーチとの問題を片付けなければならなかった。蛾に姿を変えていてもしゃべれるのだが、大きい声で呼びかけると飛蝶に気づかれてしまう。かといって近くに寄るのは危険すぎる。「どうしたらいいんだ?」と早津馬が思案していると、客の中でまだ泥酔しきってない男が「ママ、お土産って子供いるのかー?」と飛蝶に聞いた。今までの経験から「もっと飲ませれば何もかも忘れる」と判断した飛蝶は「いないわよ」とだけ言って後は何も答えず、黙ったままその男にきつい酒を強引に飲ませて続けた。それはどんなホラー映画のシーンより怖いものだった。

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