第8話 飛蝶を捜して中野へ

 朝7時に目を覚ました早津馬が求美と華菜のいる部屋に「起きてる?」と声をかけたが返事がなかった。ドアノブが回ったので「入るよ」と言って部屋に入ると求美と華菜の姿はなかった。テーブルが元の位置に戻されており、その上に置き手紙がしてあった。そこには「便せんを一枚いただきました。華菜と二人になってから良く考えてみたのですが、やっぱり早津馬さんに迷惑と危険が及ぶので昨晩の話はなかったことにしてください。お礼も言わずに失礼します。鍵は郵便受けの中にあります。お元気で」と書いてあった。求美と華菜が妖怪だと知った時、恐怖さえ感じた早津馬だったのに、求美ともう会えないと思うと淋しくて空虚感に包まれた。「やっぱり会社休もうかなー」そう思ったとたん早津馬の前に求美が現れ「休んじゃ駄目です」ときつく言われた。もちろん幻覚だった。早津馬は思いだした、求美と華菜が中野に飛蝶を捜しに行くことを。「会社に行こう。そして中野辺りを流そう。そうすればきっとまた求美に会える」早津馬の心が明るくなった。出勤へのルーティンを済ますと意気揚々と会社に向かった。

 そのおよそ2時間前、起床した求美と華菜はテーブルを元に戻し就寝前に書いておいた置き手紙をその真ん中に置いた。そしてドアを施錠し鍵を郵便受けに入れて出て行った。さすがに東京都内とはいえ早朝5時は人通りが少なかった。求美と華菜はその少ない人達に道を尋ねながら阿佐ヶ谷駅に向かった。その道中、中杉通りの欅並木の下ですれ違う人の中には朝まで飲んでいたようでふらつきながら歩いている人もいた。「家で仮眠してまた会社に向かうのかな、ご苦労さま」と見送る求美にからんでくる者が現れた。最初のうちは柔らかくかわしていた求美だが、あまりのしつこさに求美の瞳の色が変わった。華菜が「これは楽しくなりそう」と見ていると、なぜかしつこかった男が急に静かになり去って行った。そしてその男が去った後に別の男がいた。その男を見た華菜が「あっ、丸顔」と叫んだ。その男、確かに丸顔神だった。「丸顔と呼ぶのは止めなさい」と丸顔神に言われた華菜が「丸顔なのに丸顔って呼ばれるの嫌なんですよねー」と返した。「分かってたら呼ぶんじゃない。分かったね」と丸顔神が諭すと華菜は「やめようかなーどうしようかなー」とふざけた。丸顔神が求美に向かって「何とかしなさい」と言うと求美が「できません」と即答した。「きっぱり言うねー、でもこの娘は君の一部なんだろう。どうしてコントロールできないんだね?」と聞く丸顔神に求美が「どうしてでしょうねー、いつの間にか自分の意思を持ってたんですよねー、不思議ですよねー」と返すと丸顔神は「じゃ、しょうがないな」と納得した。神と妖怪の、人間の常識を逸脱した不思議なやりとりであった。求美が丸顔神に「追い払ってくれてありがとうございます。もう少し後だったら何かしてたと思います」と言うと「あっ今のことな、あの男の心を読み取って脅かしただけ、神の私にとって簡単なことだ。今のことは確かにあの男がしつこすぎた。でも暴力はいかんよ、まあビンタくらいにしときなさい」と言う丸顔神に「はい、ビンタまでにしときます。できるだけ…。あれ、ビンタは暴力じゃないのか?」と不思議がる求美に丸顔神が「君だけの特別ルールだ」と言った。「私だけの特別ルール…?まあいいか。でも一瞬で追い払ってしまうとはさすがです」と求美が言うと丸顔神がうれしそうにした。それを見て華菜が「丸と顔で、丸顔」とわざと丸顔神に聞こえるように言った。「尻尾のくせに」と内心思いながら神としての威厳を保つため、穏やかなしゃべり方で「事の始まりは君だろうが、反省しなさい」と丸顔神が言うと華菜が素直に「ごめんなさい」と謝った。華菜の背中を求美がつついたからだ。やはり華菜にとって丸顔神より求美の方が遥かに大切な存在なのだ。丸顔の一件が治まったところで求美が「私に何か用事があったんじゃないですか?急に現れるなんて…、竹刀なら返しませんよ」と言うと丸顔神は求美に向かって「君、昨日私の悪口を言ってなかったか?」と聞いた。「言ってません。女好きくらいは言ったかもしれないですけど」と求美が言うと丸顔神は疑うこともせず「女好きくらいはしょうがないか」と言った後「疑って悪かった」と素直に求美に謝った。華菜が「神様なのにそんな小さいこと気にするんですね」と言うと求美が丸顔神に「人間ぽくて好きですよ」と言った。ちょっと笑みが浮かびかけた丸顔神だったが「私は神である。人間とは住む世界のステージが違う。天上界に住む神に人間ぽいと言うのは侮辱だと思わないか?」と言って顔をひきしめた。求美が「今は石の中に住んでますけどね」と返したが、その求美の言葉を無視し「人間が神より上みたいなことを…、だまされるとこだった」と小さいことを気にする丸顔神に華菜が「もう少しで笑ったのに」と言って残念がった。丸顔神が思いだしたように「竹刀を返せという気はない。ただ、この間は格好つけて言ってしまったが、竹刀を別の物に変える時、念じて一振りする必要はない。竹刀に向かって念じるだけで変わる。以上」と言うと丸顔神の脇を通り過ぎる人に同化するように消えていった。求美が丸顔神が消えた後もそこを見続けながら一言「どこまでも格好つけるんだ…」と言うと華菜も「同感」と言ってうなずいた。「念じるだけで変わるって言ってたな。大都会でリュックはダサいし【窓】を竹刀に戻し、次はおしゃれなバッグに変えよう」と思い立ち、路地に入った求美を華菜が人目から隠すように立つと、求美がリュックから【窓】を出し「元に戻れ」と念じた。丸顔神が言うとおり【窓】を振らなくても竹刀に戻った。それを見て気を良くした求美が「ヴィトンのバッグになれ」と念じた。がしばらく待っても変わらなかった。竹刀を振りながら念じても変わらなかった。何かに気づいた求美が「そういうことか、調子こいた」と言って「バッグになれ」と念じると普通のバッグに変わった。「ヴィトンだけ余分だったか」と言う求美に華菜が「ケチくさっ」と合わせた。「ぜいたくは許さない、ってことか。なんかつまんない」と言いながら求美がまだ処分できないリュックを背負って歩き出すと、華菜も「つまんない」と言いながら、竹刀を変えたバッグを持って後に続いた。阿佐ヶ谷駅にたどり着いた時、求美が華菜が持っていた竹刀を変えたバッグの中を念のため見たがやはり中は空だった。求美が「電車に乗るお金が入ってればと期待したけどある訳ないよね、どうしようか?」と華菜に話かけると華菜が「早津馬さんに貰ってくれば良かったね」と言った。「そうだねー、貰うのは気が引けるから借りてくれば良かったね。働いて返せばいいもんね」と求美が言い、続けて「どうしようか?」と言って華菜と見つめ合っていると「あのー」と誰か知らない人から声をかけられた。見たところ中年の女性だった。「そのリュック、昔欲しかったけど子供で買えなかったの。あなた達若いのに何処で手に入れたの?良かったら売ってくれない?うちの子供にプレゼントしたいから」と言ってきた。「私達の方がはるかに年上なので」と言う訳にもいかず求美が即答できずにいると、中年の女性は売ってくれることが決まったかのように「安くしてよ」と言いながら下げていたバッグから財布を取り出した。「押しの強い人だな」と思いながらも「渡りに船」と思った求美が少し高いかなと思いながら「二千円でどうですか?」と聞くと「安い、ありがとう」と言い、中身を路上にあけて空になったリュックと、財布から出した二千円を交換して「気が変わらないうちに」と言いながら去って行った。およそ30年前、誰かが置いていっていつまでもとりに来ないのでいただいたリュックが役に立った。「損したのかな」と思いながらも「元々自分の物じゃないし、これで電車に乗れるはず」とうれしさをかみしめる求美だった。リュックから出した中身も竹刀から変えたバッグが大きめだったので楽に収まった。求美が千円札二枚を手に感慨深く見つめていると、横にいた華菜が一枚抜き、「行くよー」と言って阿佐ヶ谷駅に入って行った。「電車の乗り方分かってるのかな?」と思いながら求美が続いた。案の定、券売機の前で華菜が迷っていた。しかし、求美と華菜は二人で一匹なので当然年齢は同じなのだが、華菜が見た目やたら幼く見えるので、子供が迷っていると思った中年の男が声をかけた。求美が少し離れた所から見ていると、その中年の男から教わりながら華菜が切符を買い、中野駅に行く電車のホームを教わっていた。「こういう時、華菜は得だよな」と思いながら求美もその恩恵にあずかり、華菜の真似をして切符を買った。振り返ると華菜がホームへの階段を上がらずその手前で待っていた。求美が「華菜が可愛いから教えてくれたんだね」と言うと華菜もこの言葉には弱いようでうれしそうにした。そうして電車に乗り、二つ目の駅、中野で降りることができた。人の流れにのり、見よう見まねで改札を通り、そして北口を出て人の流れから外れた。

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