第27話

 スマホをテーブルに置き、譲くんが無事に帰ってきた安堵にしみじみと浸ったわたしは、はっとわれに帰った。

 よくもあんな風に堂々と誘えたよね。自宅に、男性を。

 そうする、ってつまりなに? 譲くんがここに来るってこと? うそ、なんで。

 間違いなくわたし自身が誘ったからだけれども。なんてことをしちゃったんだ。やばい。部屋の掃除!

 わたしは部屋を見渡して頭をかかえた。できることなら悶絶して転がりたいほどだけど、残念ながらそのスペースさえ今はない。だってこのところ残業続きだったし! ご飯を食べるだけで精いっぱいだったんだってば。


 寝室のベッドには、会社に着ていこうとしてやめた着替え候補たちが散乱する。

 キッチン隅のゴミ箱の縁からは、コンビニの惣菜容器がいくつも顔を出す。

 目を皿にせずとも、床に髪の毛が落ちているのだって気づく。

 キャンバスを立てかけたイーゼルのそばには、水彩絵の具が出しっぱなしだ。ローテーブルの上は、未開封のダイレクトメール類の山。そして開封済みの缶ビール。

 極めて女子力の低い光景に、わたしの酔いは一瞬で覚めた。

 掃除機……はこんな深夜にかけられないから、小走りでワイパーをかける。

 目についたゴミは片っ端からゴミ袋に入れていく。

 キャンバスには布をかけ(これはサプライズだからね)、絵の具はまとめてクッキーの空き缶へ。

 ベッドに放り投げたままの洋服はクローゼットに押しこむ。

 クロゼットの中の収納ボックスから新しいシーツを出し、シーツを取り替える。来客用のタオル類も取りだす。


 ゴミ出しを終えたその足でシャワーを浴びる。そこはね、ほら。やっぱり女心というものがあるからね。手を抜けないときというものはある。

 譲くんには伊吹さんがいる。なにか起こるはずもないってわかっているけれど。

 ……っていうかわたし、彼女に悪いことをしたのでは!? さあっと青ざめた。恋人が別の女性の家に泊まったなんて、修羅場の未来が見える。まずい。伊吹さんが怒るのはいいとして(よくないけど)、譲くんが傷つくのは嫌だな。今からでもお断りする?

 などといまさら悶々と悩みだしたとき、インターホンが鳴った。

 こうなったらしかたがない。もし伊吹さんに追及されたら、幹事仲間として荷物を預かるだけだ、ということにしよう。嘘じゃないし。わたしは心の内で言い訳をして早足で玄関へ向かう。ドアを開ける。


「来たわ」


 カーゴパンツにナイロンパーカを羽織った譲くんが、キャリーケースのほかに大きな土産物袋を提げて立っていた。

 髪の毛がぼさぼさだ。目もうつろ。ゆらゆら揺れているようにも見える。

 よれよれという言葉がぴったりだ。

 それでもちゃんと、譲くんだった。重たい前髪に隠れかけた優しい目も、ぶっきらぼうな話しかたをする口元も。なにからなにまで、譲くんだ。久しぶりだなあ。


「どうぞ、譲くん。――お帰りなさい」


 譲くんが驚いた風に目を見開く。

 ほとんどまぶたが落ちそうだった目に一瞬、光が戻って。


「帰ってきたって感じしたわ。……ただいま、直央」


 そう言った直後、譲くんの体が揺れ、わたしの肩にもたれかかった。





 もたれかかった譲くんを手で押し留め、どうにかダイニングキッチンまで歩いてもらう。


「シャワーにする? それとももう寝る?」

「寝る……」


 譲くんは言いながらソファにダイブした。コンパクトなふたりがけのソファの端から、譲くんの足がだらりとはみ出した。


「ベッド使って……! ソファじゃ疲れが取れないって」

「むり……起きれない」

「ハワイってそんなに疲れるんだっけ……?」


 一週間は向こうにいたのだから疲れるのは当然として、時差ぼけとも違うような。


「バックパッカーがスマホ……忘れて……機内……俺が……なんか引き取るはめに……パスポートも捨てたとかふざけたこと言うから……探して……」

「うん、わかったからもういいよ? お疲れさま」


 ほんとうはまったく意味がわからない。でもなんとなく、バックパッカーの災難に巻きこまれたんだろうなというのは伝わってきた。譲くんはバックパッカーを放り出せずに一緒に対応したんだろう。

 わたしは寝室のクロゼットから毛布を運んできて、譲くんにかける。


「わたしは明日、ビッグサイトに出勤するけど、譲くんはゆっくりしてくれていいからね」

「んー……展示会?」


 譲くんがかすかに目を開ける。


「そう。明日が準備の日だから」

「んー……頑張れ、直央。もっかいあれやって」

「あれ?」

「お帰りっていう」


 そんなに気に入ったのか。日本が恋しかったのかな。

 ソファの背もたれに向かい合うようにして横になった譲くんの前髪が、譲くんの目にかかる。あっというまにまぶたが落ちたみたいだ。

 眠気でぼんやりした声は、いつもより甘ったるい。胸の奥がうずくなあ、もう。


「お帰りなさい、譲くん」


 わたしは譲くんの目にかかった髪を払おうと手を伸ばす。そのときだった。頭をかがめたわたしの首裏に、譲くんの手が伸びてきて。


「――ただいま」


 息をのむ。


 鼓動が派手な音を打ち鳴らす。

 心臓が破裂しそう。


 ただいま、じゃないよ譲くん。

 頬にキスしておいて、すやすや寝ちゃだめでしょう!?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る