第四幕「真実の愛に涙はいらない」

1.境界線上の失楽園

 静かに、確実に。

 大切な何かがこぼれ落ちる音がする。


 顔を上げても目の前は真っ暗で、手を伸ばしても指先一つ見えない。完全な暗闇というものがあるなら、こんな感じかもしれない。何も見えないやみを見つめていると、涙がこぼれそうになる。どうして、わたしは泣いているの。まだ何も失っていないのに。


「リゼット」


 誰かが名前を呼んでいる。どこか不機嫌そうな、少しだけ掠れた低い声。親しみなんて感じられもしないような声音なのに、その声を聞くと涙が止まらない。どうして、こんなに悲しいのだろう。


 暗闇に手を伸ばすと、指先が誰かの背に触れた。たくましさとは無縁だが、ひどくまっすぐに伸びた背筋だった。そっと手を触れさせると、その『誰か』はこちらを振り返った。


「なんだお前、泣いているのか」


 暗闇に見慣れた姿が浮かび上がる。黒い髪、斜に構えたような不遜な瞳。浮かべる表情は覚えているままの傲岸さで、涙を流すリゼットに顔をしかめてみせる。


「クライド師匠……!」

「なんで泣くんだ。別に悲しいことなんて起こっていないだろ。そんなぼろぼろ泣いて、水分の無駄遣いだからいい加減飲みこめ」

「だ、だって、クライド師匠が! 悲しくないわけないじゃないですか! どうして、み、みんな、お。おい、ていってしまったんでずが……!?」


 後半はほとんど言葉になっていなかった。すさまじい号泣にクライドは顔を引きつらせる。こんなにリゼットが悲しんで泣いているのに、当の本人は果てしなく嫌そうな顔しかしない。それが悔しくて、リゼットはクライドの胸に拳を打ち付ける。


「いで! 叩くなバカ!」

「ばかですよ! バカだからなんなんです! いなくなっちゃった人にそんなこと言われたくありません!」

「い、いなくなったって。どうしたって殴るくせに無茶苦茶言うな! 俺だって好きでこうやってるんじゃない!」

「しりませんよ! 文句があるならさっさと戻って怒ってくれればいいじゃないですか!」

「ぐあっ! だ、だから殴るな! わかった、とりあえずお前の主張は理解したから!」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔に辟易したのか、クライドは珍しく先に折れた。だからと言って現実が変わったりするわけではないだろうに、あまりにも身勝手な話でリゼットはさらに拳を振り上げる。


「だ、だから殴るの禁止だって!」


 クライドが後退すると、その姿は闇に紛れて見えなくなる。また一人きりの暗闇に戻されて、リゼットは鼻をすすりながら顔を覆った。


「クライド師匠のばかぁ……なんで、どうして」

「だから泣くなよ。ほら、顔を上げろ。まだ何も終わっちゃいないぞ」


 言われたとおりにしてやる義理なんかない。けれど、そうしないとクライドが本当にいなくなってしまいそうで。リゼットは顔を上げる。そうすれば、目をそらせない現実が見えてしまうだろうけども。




 ――ぼんやりとした視界の中を、いくつもの装丁本が通り過ぎていく。ぐるぐると渦を巻きながら装丁本たちは何もない空へと巻き上げられ、無数の輝く星のようになる。


 リゼットは虚空に切り取られた床の上で、呆然とそれを見つめていていた。まるで建物を全部分解して、それをめちゃくちゃに配置し直したような――そんないびつさしか感じない岩の塊が何も写さない夜空のような暗闇を漂っている。


「ここは、一体」


 リゼットはふらつきながらも立ち上がった。世界が終わる瞬間があるとしたら、こんな光景ではないだろうか。ばらばらになった壁や柱がらせん状になって漂い、かつての床すらも虚空のちりと化している。


 そんな状況を見つめていても、リゼットの心を占めていたことはたった一つだった。無言で膝をつくと、まぶたを閉じたままの『クライド』の手に触れた。


「クライド師匠」


 クライドは何も答えない。その事実を心が咀嚼するには、まだ時間が足りない気がした。それでも、まだ何も終わってはいない。リゼットは生きているし、この異変を放置することをクライドは望まないだろう。


「だけど、どうすれば……せめて何が起こっているかだけでもわかれば」

『小公女様』

「っ、誰です?」


 目の前でふわりと赤い色をした尾羽が舞い上がった。目を見開くリゼットの前で、炎をまとう鳥が貴婦人のように優雅な礼をする。その傍らには赤い色をした装丁本――魔法装丁『火の烙印』が漂う。


「あなたは、『火』の化身ですか」

『さよう。わたくしは魔法装丁の化身です。こうして言葉を交わすのは初めてですね、小公女様』


 ころころと鈴を鳴らすような笑い声を立て、火の鳥は静かにリゼットの肩へ舞い降りる。それなりに大きさがあっても、『火』からは重みは感じられない。思わず手を伸ばして翼に触れれば、鳥はぴくりと体を震わせる。


『申し訳ありません。あなたの手はわたくしたちにとって少々力が強すぎる』

「あ……ごめんなさい。わたしが触れると、あまり良くないんですよね」

『いえ、あなたの体質は特異ではありますが、致死的なものではないので問題はありません。それよりも小公女様、わたくしからお願いがございます』

「お願い、ですか?」


 唐突な言葉に、リゼットは首を傾げた。この異様な状況下で、リゼットができることなどあるのだろうか。疑問符を浮かべる少女に向かって、『火』は静かに頭を下げる。


『現在、オーレンを称する『コプティス』の介入によって、魔法図書館が機能不全に陥っています。今はあの銀色の男がここにとどまっているため、図書館内部の崩壊で済んでいますが……このままでは暴走した『地の烙印』の力が外にもれだし、大規模な地震が発生するでしょう。迅速に事態を解決しなければ、多くの犠牲が出ると予想されます』

「待ってください。コプティスって? それにここは魔法図書館なんですか?」

『コプティスはとある魔法使い一族の総称です。かつて、我らが真なる主フラメルに魔法装丁の制作を依頼した魔法使いがコプティスでした。ですが、やつらの思想と完成した魔法装丁の力を危険視した主によって、我々はコプティスに引き渡されることなく、魔法図書館にて封印されることになったのです。ただ、コプティスはそれが不服だったようで……以後、魔法装丁師一族との関係を断ったはずだったのですが。あのオーレンなる魔法使いの成れの果ては、先祖の返礼とばかりに魔法装丁の力で何かを成すつもりのようです』


 ため息のようなものを吐き出して、火の鳥は空を見上げた。宙を漂うたくさんの瓦礫に無念そうな視線を向け、『火』はリゼットの肩から床に舞い降りる。


『あなたのおっしゃる通り、ここは魔法図書館であった場所です。本来であれば、仮初の主がわたくしを封印することにより、魔法図書館の力場が安定し魔法装丁も元の封印状態へと戻ることができるはずでした。しかし、魔法装丁の一角を担う『地の烙印』がオーレンなる者の精神浸食を受けたことで、力場の維持が困難となったのです。ゆえに魔法図書館は本来の機能である魔法装丁の封印と維持を行うことができなくなり……『地の烙印』の暴走する力を抑えきれず、この混沌とした姿に変わってしまったわけです』


 つまり、この状況はすべてあの銀色の男によってもたらされたものなのか。改めてあの男の罪深さを知って、リゼットは唇を噛みしめる。どうしてそんな人間を理解者だと思ってしまったのだろう?


「状況はわかりました。それで、お願いというのは?」

『はい、ひとつだけあなたにしてもらいたいことがあるのです』


 『火』の化身は器用に頭を下げた。魔法装丁が礼を尽くしてまで願う理由が思いつかず、リゼットが再び首をかしげると――『火』の化身は、決然とした様子でこちらを見上げた。


『小公女様、あなたには死んでいただきたいのです。仮初の主を救うために』

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