第三幕終章「たったひとつ、願いを叶えるために」

4.魔法装丁は永遠の眠りに寄り添う

 通路を進むだけで、熱気に肌を焼かれるようだった。

 リゼットはクライドと共に、『火』の魔法装丁の化身である鳥の前に立った。ルビー色の目は悲しげな色をたたえ、目の前に立つクライドを見る。


『自らの身を削ってまで……ここまでするほど、この街が大切ですか』

「さてな。俺はそこまで何かに愛着を持つ人間じゃない。街を守りたいなんて大層な願いは持っていないさ。ただ」


 ちらりと、クライドはこちらに視線を向けた。つないだ手はそのままに、ふっと自虐的な笑みをリゼットに向ける。その、どこか一抹の後悔をにじませる表情に、リゼットの胸はひどくざわめいた。


「ただ、どうでもいいと言って目や耳をふさいだところで、誰かの悲鳴や悲しみの声は確かに響いているんだ。それを無視して自分だけ守ろうとしても、結局全部を失うだけさ。別に俺の世界は俺だけで完結しているわけではないしな」


 どこか恥ずかしげにつぶやいて、クライドはそっとまぶたを伏せた。その所作で、少しだけクライドという人間のことが分かった気がした。


 いつも傲慢で不機嫌で、他人のことなどどうでも良さそうな顔をしている人。だけど魔法装丁が暴れ出した時には真っ先に駆けつけて、何とかしようとしていた。その理由はきっと、誰かを守り切れないことを恐れていたからかもしれない、冷たい言葉とは裏腹に、いつだってクライドはリゼットを見捨てなかった。


「だから、俺は俺の選択に後悔はしないよ。あとに残すお前たちのことは気がかりだが……ま、こいつもいるしな」


 唐突に指差されて、リゼットは目を真ん丸にした。信頼さえも感じられるクライドの声音に、戸惑いより先に不審が首をもたげる。


「なんです、クライド師匠。らしくないです」

「らしくないって何がだよ。俺はいつも通り素直なクライド師匠だぞ」

「そ、それがおかしいと言っているんです! なんですか、一体! まるで」


 それ以上は言葉にできなかった。クライドはうっすらと笑うと、リゼットの手を離した。温かかったはずの手のひらが離れ、リゼットの手の中には冷えた空虚だけが残される。


「お前ならきっと大丈夫だよ。俺がそういうんだから間違いない」


 クライドは笑う。まるで陽だまりのような、温かな笑みだった。彼がそんな笑い方もできるということを、リゼットは今まで知りもしなかった。どうして今、なぜ今になってそんな表情を見せてしまうのか。


「クライド師匠、待ってください」

「さあ、今。やっとすべての魔法装丁が揃う」

「まって、まって……ください……!」


 リゼットの呼びかけに、クライドはもう振り返らなかった。蒼白な首筋に視線を当てたところで、装丁師が戻ってくることはない。ひどく理不尽で、あまりにも不条理な現実に、リゼットの視界はにじんでいく。


「……『火』。いや、『火の烙印』待たせたな」

『お望みのままに。わたくしは何も言いますまい』

「ありがとう。じゃあ、始めよう」


 クライドの手が『火の烙印』の額に添えられる。ルビー色の目は静かに閉ざされ、いくつもの光の粒が舞い上がる。クライドは大きく息を吐き、すっと小さな言葉を紡ぐ。


「永き契約の鎖に戻られよ」


 青白い光と赤い輝きが絡み合い、上空へと舞い上がっていく。ひとつ、またひとつ。やがては無数の輝きと化して『火』の化身は姿を薄れさせていく。


「クライド師匠……っ!」


 すべての光が、輝きが、クライドの中からこぼれ落ちていくのが『視えた』。全部がなくなってしまう。リゼットは耐え切れずに駆けだした、けれどその瞬間に手は届かない。


「――『Reverti(帰還)』――」


 ちょっとした別れの挨拶のように、クライドはそっと言葉を吐き出した。光は奔流となり空間すべてを飲みこんでいく。誰の姿も見えない、あらゆる音がかき消えた世界で、リゼットは最後にその言葉を聞いた。


「ああ、不出来な俺でもちゃんと最後まで果たせた」


 ふっと、かすれた笑い声が響く。


「安心した。――ありがとな、リゼット」


 目を開く。すでにリゼットの前に光はなく、赤々とした炉の光とじんわりと熱を伝える温度だけが存在していた。ふらつきながら立ち上がったリゼットは、数歩先に落ちている炎のように赤い色をした表紙の装丁本と、横たわり目を閉じている装丁師の姿を見つけた。


「……クライド師匠?」

 リゼットは魔法装丁の前を素通りし、倒れたまま動かないクライドの側に膝をついた。赤い光に照らされた顔はそれでも青白く、閉ざされたまぶたはまつ毛の一本も動かない。


「クライド師匠」


 リゼットは名を呼びながら、クライドの肩をゆすった。けれど、装丁師の体は糸の切れた人形のように何の力も入らず、リゼットの呼びかけにも反応しない。どうして、カサカサになった唇で呟いたリゼットは、呆然と眠りについたクライドの顔を見下ろしていた。


「使命を果たされて安心しただろう、主さまも」


 腹の底に響くような低い声が耳に届く。顔を上げると、そこには金色の獅子の姿があった。見覚えのないその生き物の姿をしばし眺めて――リゼットはそっと首を横に振る。


「そんなの、わかんないじゃないですか。今日渡したミートパイだってまだ食べてなかったし。もっといろんなことをやり残してるでしょう?」

「だとしても、主さまが望んだ結末は『これ』だった。少なくとも、我々がとやかく言えることではないだろう? 主さまは自らしか為せないことを成し遂げられた」

「そうなんですね。……そうなんでしょう。だけど、こんなのあんまりでしょう、猫……」


 リゼットは小さく笑うと、強くまぶたを閉じる。たった数日の付き合いといえば、その程度のことでしかないのかもしれない。だが、リゼットにとっては、とても楽しい数日で、かけがえのない時間でもあった。


「だって、わたし。まだ何も答えてもらってない」


 声は泣きだす寸前のように震えているのに、不思議と涙はこぼれなかった。リゼットは目を開く。しかし、答えをくれるはずの相手はもうどこにもいない。


「ありがとうなんて……そんなのいらない。ただ、わたしを弟子にしてくれるって、一言だけでも言って欲しかった」


 そうすれば、本当の意味でクライドに認めて貰えたと思えただろうに。クライドはどんなに呼んでも、どんなに揺さぶっても目を開かない。どうしたって覆すことの現実に、リゼットは初めてクライドを恨んだ。


「……ここにも長居はできない。さあ、行くぞ。小公女――リゼット、気をしっかり持て」

「あなたもそう呼んでくれるんですね、猫……だけど、わたしなんだか、疲れちゃったみたいです」


 涙が出ない代わりに、胸の奥はズタズタになっていくようだった。心臓をすりつぶされるような痛みに、リゼットはうつむき顔を覆った。猫の言う通り、いつまでもここに居続けることはできない。それでも今はまだ、あと少しだけ立ち止まっていたかった。


「クライド師匠、あなたはバカですね」


 『誰がバカだって!? この頭空っぽの変態小公女が!』――そんな言葉を期待しても、二度と声を聞くことはできない。リゼットはその事実だけで、心が砕けるのを感じた。


「……かわいそうに。悲しいことがあったのかい」


 耳元で、聞きなれた――聞きなれていたと思っていた声がした。リゼットが顔を上げると、銀色の瞳がこちらを覗き込んでいる。猫が全身の毛を逆立て、風の化身たちが泣き声を上げる。それでもリゼットがぼんやりとしていると、『銀髪の男』は微笑みながら手を差し出してきた。


「かわいそうに、リゼットさん。君にそんな顔をさせた悪いやつは誰なんだい」

「……あなたは」


 差し出された手を見つめても、リゼットの心は何一つ動かなかった。あれほど深く感じていた親しみは消え去り、残されたのはただただ空っぽの疑念だけ。


「あなたは、誰なんです? わたし、あなたなんか知らない」

「……そうかい、リゼットさん」


 手を引っ込めると、『銀髪の男』は軽く指を鳴らす。髪飾りのダリアが風もないのに揺れ、リゼットは導かれるようにまぶたを下ろした。


「僕は君を助けに来たんだ。今なら君の大切なものを取り戻す手伝いができる。だから」


 リゼットは目を開く。目の前には相変わらず薄笑いを浮かべる男が立っている。銀髪の男は唇をいびつな形に持ち上げると、再び手を差し出した。


「だから、魔法装丁を渡して? そうすれば、君の願いを叶えてあげる」


 リゼットはふらふらと、傍らに落ちた魔法装丁を手に取った。頭の中には疑問符しか浮かんでいないのに、どうして魔法装丁を手にしているの?


「いい子だね。さあ、それをこちらに」

「――しっかりしろ、リゼット!」


 猫が咆哮する。刹那、ダリアの花飾りが砕け散り、リゼットははっと目を見開く。


「わたし、何を」

「まったく忌々しい! いいだろう、まずは『お前』からだ」


 男は再び指を鳴らす。すると猫は一度大きく目を見開き、苦しげに体を震わせる。尋常ではない様子にリゼットが手を伸ばすと、拒絶するように前足が振るわれた。


「猫……!? ねこ、どうしたんですか!」

「遅いよ、リゼットさん。そいつはもう、僕のものだ」


 銀色の目がにんまりとした笑みを形作る。いびつな笑みにおぞましさを感じ、リゼットはもう一度猫に手を伸ばす。けれど、もう猫はリゼットを見ることもしなかった。


「おいで、『地の烙印』。僕と一緒に世界というやつに目にものを見せてやろうじゃないか!」


 金色の獅子は跳躍し、男の傍らに降り立つ。その目は虚無の銀色に染まり、リゼットに対して何の感情を表すことはない。まさか、猫まで奪われるなんて――。


「だめ、そんなの!」


 リゼットは立ち上がる。前を向き、男と猫に向かって駆けだす。だが、男の狂ったような笑い声と共に地面が激しく揺れはじめ、瞬間、足元に現れた黒々とした渦がリゼットたちを飲みこんでいった。

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