2.そして、リゼットは選ぶことにした。

 投げかけられた言葉をゆっくりと心の中でなぞり、リゼットは長い息を吐き出した。


 クライドを救うために、死んでもらいたい。冗談だとしたらあまりにも衝撃的すぎる発言だった。だが、その言葉がさらに重々しく響いている理由は、『火』の化身が真剣にこちらを見つめているからだ。


「わたしに、死んでもらいたい? クライド師匠を救うために?」

『はい、その通りです』

「……まってください。クライド師匠を生き返らせるには、私の命が必要、ということです?」


 リゼットは少なからず混乱していた。まぶたを閉じたままのクライドを見下ろしても、彼が応えをくれるはずもない。なぜ、こんな風に死を望まれているのだろう。もしや、魔法装丁はリゼットに対して憎しみを抱いているのか?


『誤解があるようです。仮初の主――クライドはまだ完全には死に至っておりません』

「どういうことです? クライド師匠は生きているんですか?」

『正確には、死に至る一瞬前に留まっている。……本来、クライドは魔法図書館の核として存在する者であり、この場が存在する限り『魔力の喪失による死』を迎えることはないのです』


 『火』の言葉は、目の前の現実と相反していた。事実、今もクライドは目覚める気配がないし、あの時の猫だって主の死を認めていたはずではないのか。


 リゼットの疑問を感じ取ったのだろう。『火』の鳥は憂いを含んだまなざしを崩れゆく空に向けた。今も魔法図書館の崩壊は続いている。リゼットたちがいる足場にしたって、いつまでもつかわからない。


『あくまでも、本来はです。魔法装丁がすべて元のように封印され、その四つの力によって魔法図書館の魔力が安定化されていれば、クライドが死ぬことはありませんでした。むしろ、今、一瞬前で留まっていること自体が奇跡なのですよ。ここまで不安定化した魔法図書館にあっても、どうしてこの方の命は消えていないのか。不思議でなりません』


 『火』は憂いの消えないまなざしを自らの主に向けた。クライドがまだ死んではいないなら、息を吹き返させることができる。だけどそれには――改めて向けられた視線に、リゼットは唇を噛みしめるしかない。


『もう一度、クライドを目覚めさせるには、命の火を再び燃え上がらせるための種火が必要なのです』

「それが、わたしの命ですか……? 他に方法はないんですか。それ以外は何も?」

『現状、取れる手段はそれだけです。種火となる命も誰でも言わけではないのです。クライドと繋がりがあり、そして、彼が必ず受け入れる存在でなければ』

「そんなの」


 そんなの、ひどい。クライドがそんなことを望むとは、到底思えなかった。口ではひどいことを言いつつも、誰の犠牲も望まなかった人だ。もし、ここでリゼットが軽々しく命をささげるなんていったら、門扉に吊るした上で罵詈雑言を吐きかけるに違いない。


 その光景を想像してしまって、乾いた笑いが口から洩れてしまった。絶対怒るはずだ。それにリゼットだって小公女としての立場がある。簡単に死ぬなんて言えるはずがなかった。


「自己犠牲で解決することなら、それが一番簡単だってことは、わかっているつもりです」


 リゼットが微笑んだところで、『火』のまなざしは優しい気配などまとわない。実際、この魔法装丁はひどい状況を招いた一因であるリゼットを恨んでいるのだろう。少なくとも、『火』は猫のようにリゼットの心には寄り添ってはくれない。瞳の奥の冷めた感情がそれを物語る。


「だけど、わたし……死ねません。それは私がただのリゼットである以前に、公女であるからです。わたしの身はわたしのものだけど、わたしだけのものではないのです。公女として生まれたからこそ、背負うものがあり……それはわたしの一存で投げだせるものではない」

『クライドは……そして、彼がいなくなることで起こる災厄は、あなたにとって公女という地位以下の価値しかないということですか』

「いいえ、……ううん。たぶんわたし、ものすごく利己的な人間なんです」


 虚空には、無数の装丁本が成すすべなく舞い上げられるままになっている。それを哀れと思いつつも、リゼットが進んで手を差し伸べることはない。確かにあれらは美しく麗しい装丁本たちだが、『リゼットだけ』のものではない。


「わたし、本の装丁が好きで、好きすぎるぐらい好きで、いくつも買い集めたりしていましたけど、どんな装丁でもよかったわけではないのです。わたしにとって重要だったのは、『わたしだけのもの』になってくれるかどうかでした。おばあさまのくれた装丁本はボロボロで、ちっともきれいじゃなかったですけども……あれは確かに、わたしに出会うために生まれてきてくれた本でした」


 祖母に貰った装丁本は、今もリゼットの部屋の本棚で静かに飾られている。あの装丁はお世辞にもきれいとは言い難いし、他のものに比べたらとるに足らないような存在だけど、リゼットにとっては唯一の、『リゼットだけの装丁本』だった。


「わたし、『わたしだけのもの』が好きなんです。どんなにきれいなものでも、素敵な装丁でも……わたしの手の中に納まってくれないなら、いつか遠くへ行ってしまうでしょう? 人も同じだと思います。クライド師匠は……わたしのそばにずっとはいてくれない」


 別に恋とか愛とか、そんなものを語りたいわけではない。リゼットにとってクライドは、装丁師という憧れの存在であると同時に、どうやっても届かない遠い人だった。


「だけどもし、わたしを『弟子にしてくれる』って言ってくれていたら。わたしは喜んでこの命を差し出したと思いますよ。クライド師匠にとって、ちょっとでも心の端に置いてくれるような存在になれていたなら、わたしにとって本当は……それで十分だったって、気づいてしまったから」


 遠すぎる存在だからこそ、少しでも自分を心に残してほしかった。自分のものにならなくても、常に手を触れられなくても、たまに振り向いて笑ってくれる人がとても大切だと、初めて思えるようになったのに。


「だから、わたし死ねません。クライド師匠がやれって言っても死にません。わたしを認めてくれなかった人のために、自分を犠牲にすることなんか、できない!」


 クライドは自分の意志で道を決められる人だ。そこにリゼットが介入する余地はない。彼は彼自身で決めて、リゼットの意見など聞かずに去っていこうとしているのだから。


 ならばリゼットも自分のために選ぶべきだろう。利己的であろうと、自分を犠牲にするだけの道は選ばない。その意思と共に前を向くと、『火』は初めてリゼットをにらみつけてきた。


『あなたは、本当に……』

「――本当にろくでもない人だなぁ、リゼットさんは」


 絡みつくような声音が、すぐそばで響いた。粘つくような視線に背筋が凍る。リゼットがのろのろと視線を動かすと、そこには歪んだ笑みを浮かべるオーレンが佇んでいた。


「……オーレン……!」

「やあ、リゼットさん。生きていてくれて嬉しいよ」


 にたりと笑顔を浮かべたオーレンは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。以前は穏やかに見えた銀色の瞳も、今は禍々しいとしか感じられない。クライドの体をかばいながら後退するリゼットに、オーレンは大げさに肩をすくめてみせる。


「逃げなくてもいいじゃないか。僕と君の仲だろう?」

「そんなの知りません。いまさら何をしに来たんですか!?」

「ん? ああ……今度こそ、全部の魔法装丁を頂きに参りました」


 あっさりした口調で告げて、オーレンは軽く指を鳴らす。するとそばに落ちたままだった魔法装丁たちが浮かび上がり、男の腕の中にあっさりと収まる。


「あ……」

「もう主もいないことだし、構いませんよねぇ。文句があったとして聞きませんが! はははは!」


 オーレンの腕に収まった魔法装丁たちは輝きを失い、ただの本のように意のままになっている。なぜ抵抗しないのか。疑問と共に『火』を見れば、装丁の化身は力なく頭を垂れて消え失せてしまう。


「そんな、どうして」

「どうしてってそれは、こいつらのただ一つの希望をあなたが打ち砕いたからでしょうが! そんなこともわからないのかい? 困った人だねぇ、リゼットさんは!」


 魔法装丁をぞんざいに脇に抱え、オーレンは再び迫ってくる。助けを求めたとしても、リゼットを守ってくれる人は誰もいない。無力感を噛みしめながらも、クライドの体をかばっていると、オーレンはいいことを思いついたように手を打った。


「ああ、そうだ! どうせだからリゼットさんだけは助けてあげるよ。僕たちの仲だからね。そんな怖い顔をしなくても大丈夫。さあ、こっちに手を」

「やめてください。そうやってまた、操る気でしょう……!?」

「うん? だったらどうだって言うんだい?」


 素朴な疑問をにじませて、オーレンを称する男は笑った。あまりの毒気のない表情に、リゼットはひどく冷たいものが胸に落ちるのを感じていた。どうして、そんな風に笑っていられるの?


「操られるのは君が弱いからだよ。それは仕方がないことじゃないか?」

「仕方ない……? 他人を操ることに、罪悪感はないのですか!」

「罪悪感? どうして? 強ければ操られないんだから、弱いやつの方が悪いんだろう?」

「……!」


 狂っている。そう口に出すのもはばかられるほどに、オーレンの表情は無垢だった。自分の考えに疑問さえ持たず、ただ他人を蹂躙する。そんな人間が存在するなんて、到底信じられることではなかった。


「良いこと教えてあげるよ、リゼットさん。僕ら一族『コプティス』では、弱い魔力しか持たない子どもは、強い力を持つものの餌になるんだ」

「やめて」

「ああ、勘違いしないでくれるかな。餌と言っても魔力を搾り取られるだけで殺されるわけじゃない。単に、飼い殺しにされるだけ。意味わかるかな、どういう状況か」


 聞きたくない。おぞましさに全身の毛が逆立ちそうだった。身を震わせ目を背けるリゼットに手を伸ばし、オーレンは邪気のない顔で笑った。


「つまり、魔力を吸い取られながら生かされ続けるんだよ! 死ぬ権利すらなく、やつらが望むままにいつまでもさ! 幸せな君にはわかるかい? この理不尽が……!」


 不意にオーレンの形相が変わり、リゼットの髪を鷲掴みにする。細身の体に似合わぬ異様な力でリゼットを引きずると、一歩踏み出せば落ちるぎりぎりの場所で宙づりにした。


「さあ、お願いするといい。僕に、助けてと言うといい」

「…………」

「ほら、どうしたんだい? このままだと落ちてしまうよ? いいのかい? あの装丁師を助けないくらい自分が大切なんだろう? だったら、ほら!」

「……とですね」

「ん? なんだい? なんて言ったのかな?」


 髪が今すぐにでもちぎれてしまいそうだった。痛みで自然と涙があふれ出し、リゼットはにじむ視界の中でオーレンをにらんだ。どうせ、何をしても助けてなんてくれないでしょう? 激痛で顔をゆがめながらも、リゼットは必死の思いで笑う。


「情けない人ですね。あなたごときに、わたしが泣いて縋るとでも思ったんですか? 思い上がるのもいい加減にしなさい……!」

「……はは」


 オーレンの目から光が失われる。機械仕掛けの人形のような動きで、首を傾げたかと思えば――かっと、血走った目を見開き叫ぶ!

「だったら死ねよ。お前の大好きな装丁師と一緒にな」


 髪から手が離れ、リゼットの体は落ちていく。支えるものもなく、掴む場所さえなく。伸ばした手は空を切り、ただただ、ひたすらに虚無の空間を落ちていく。


「こんな」


 こんな終わりなんて。後悔が心の奥底を焼く。こんな風になるなら、クライドに命を渡せばよかった? けれど、何度同じ場面に立ったとしても、リゼットはそれを選べない。


 何かの予感に上を見れば、黒い影がこちらに向かって落ちてくるところだった。あれは――クライドだ。オーレンは抵抗もできないクライドを、ここに叩き落としたのか。


「クライド師匠」


 ひたすらに落ちていく時間の中では、一瞬が永遠に近づく気がした。両手を広げ、空気の抵抗を増やすことで落ちる速度を減らす。そうしているうちにクライドとの距離が近づき、リゼットは彼の手を引くと、自分の腕の中に抱きしめる。


「ごめんなさい、クライド師匠」


 何に対する謝罪かは、リゼット自身にもわからなかった。様々な思いが胸をよぎり、目から涙がこぼれ落ちる。もう、あんな風に話すこともないだろう。そうわかっていても、心のどこかが諦めきれない。


「わたし、生きたい」


 もしも他に選択肢があったなら、どれほど幸せだっただろう。こんな風に二人で落ちていくのではなく、ただ笑って過ごせる日々があればよかった。二度と訪れない日々に胸を焦がしながら、リゼットは涙にぬれたまぶたを閉ざす。


「ほんと、お前はバカだな」


 そんな声が聞こえた気がしたけれど、たぶん気のせいだ――。

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