Playball.6 男女野球対決(前編)

 現在、記録上で、日本で初めて行われた野球の試合は、明治6年(1873年)、前述の開拓使仮学校での、アルバート・G・ベーツが始めたものとされている。


 国外で初めて試合を行ったのは、同じく1872年、アメリカを巡業中の軽業師一行が、ワシントン・ナショナルズと対戦し、17-18で敗れている。


 記録上、日本で初めて国際試合が行われたのは、明治29年(1896年)の5月23日。旧制一高(第一高等学校)ベースボール部で、横浜外人居留地運動場で、横浜外人クラブと対戦し、29-4で大勝。これにより、野球人気は高まったと言われている。


 また、ベースボールを「野球」と訳したり、野球用語を翻訳したのは、この国際試合の少し前くらいで、中馬庚ちゅうまんかなえと言われ、俳人として知られる正岡子規が翻訳したというのは俗説らしい。だが、正岡子規が一高時代に、野球に夢中になったというのは本当らしい。


 そして、これより前の野球黎明期のことは、ほとんどわかっていない。


 明治12年(1879年)、7月。函館区、日々学校(現在の遺愛女子中学校・高等学校)。

 この北海道初の女学校は、当初たったの6名から始まった私塾だったという。


 その当時でも、まだ文科省認可の正式な女学校とは認められておらず、明治15年(1882年)に「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」となり、さらに後の明治18年(1885年)に、校名が現在の「遺愛」になる。

 だが、北海道でも歴史が古い函館の、最も古い学校の一つだった。


 その女子しかいないような場所に、男子が入っていくのだ。


 当時の常識からすれば、男子が来るというだけでも、恐ろしいと感じる女子がいてもおかしくない。


 だが、彼らは真剣だったし、彼女たちもまた真剣だった。


 何故なら、男子たちは、せっかく習ったベースボールの技術や経験を生かしたいため、ペンハローにわざわざバットやグローブ、ボールの発注を頼み、ペンハローは粗末な代用品のようだった、野球用品に代わり、本国のアメリカから野球道具を取り寄せていた。


 しかも、投手を務める佐藤昌介は、わざわざ私費で東京まで行き、新橋アスレチック倶楽部を訪ね、平岡凞から「カーブ」の投げ方を教わってきていた。


 一方の、日々学校には、札幌農学校と同じような、どちらかというとお堅いプロテスタントのミッションスクールの割には、個性的な面々が集まっていた上に、試合を了承してから、学校創設者でもあるハリスと、その妻であるフローラが中心となって、女生徒たちに密かに野球を教えていた。


 彼が「準備」と称したのは、そのためで、一年の間に、彼女たちもまた野球に対して、万全の準備を整えていたのだ。


 天気は快晴。北海道の夏らしく、湿度が低く、からっとした爽やかな青空の下、試合は小さなグラウンドで行われることになった。


 札幌農学校の芝生広場よりも若干小さなグラウンドとも言えない広場には、きちん白線が引かれていたが、ベース自体は、おもちゃのような粗末なずだ袋を置いたようなものだった。


 審判は、主審がペンハロー、一塁と三塁の塁審は、ハリスとその妻、フローラが務める。つまり、完全に第三者的な立ち位置で、外国人でもあり、教師でもあり、野球に詳しい生徒外のアメリカ人たちに委ねられた。


 試合は、本来のルールに則って9イニング制で行われることになった。

 服装については、まだユニフォームなどない時代ゆえに、それぞれが着ている私服で行うことになり、ほとんどの人間が、小袖を中心とした、和服だった。洋装なのは、審判を務めるアメリカ人たちだけだった。


 試合開始前に、グラウンドで整列した彼ら、札幌農学校の生徒たちが見た、彼女たちが異質だった。

 中でも、一際「横」にデカい女がいた。


 まるで相撲取りのような体格で、力はありそうだったが、女子とは言えないような、丸々と太った体格。短髪で、腕も太く、強そうに見えるが、足は遅いだろうと思われた。


「あれは、何だ、大島?」

 伊藤がひそひそと囁くように、隣で大島に振るが、


「知らん。ただ、気をつけろ。あれは、当たれば飛ぶぞ」

 露骨に警戒の色を面上に張りつけていた。


 一方、まだ紅顔の美少年のような風貌をしていた、若い新渡戸稲造少年は、別の女子に目が釘付けになっていた。


 まるでどこかの華族のお嬢様のような風貌を持つ、爽やかで、足の長い、美しい和装の女性。もちろん、堀節子だった。

 明らかに見とれているのを察した、隣にいた内村鑑三が、彼を小突いていた。

 この辺りは、今も昔も、少年が少女を見る目は変わらない。


 主審を務める、ペンハローが改めてルールを説明し、場外に置かれた、簡易的な木の板を指差す。


 そこには、漢数字で一〜九と書かれてあり、その下に「札幌」、「日々」とそれぞれ書かれてあり、チョークが置かれてあった。


「先生。何で、僕たちが先攻なんですか?」

 宮部金吾が訪ねていた。眼鏡をかけた、学者のような男でもある彼は万延元年(1860年)生まれの、この年19歳。


「それはね。僕たちがお客さんとして、函館に来たからさ。野球では、後攻側がホームになる。つまり、僕たちはアウェーだ」

 試合が始まろうとしていた。


 先攻、札幌農学校。後攻、日々学校。


 打順と守備も決まっていた。

 札幌農学校は、一期生と二期生の混合体制で、中でも主力は、


1番 大島正健(中堅手)

3番 新渡戸稲造(二塁手)

4番 内村鑑三(三塁手)

5番 佐藤昌介(投手)

6番 宮部金吾(右翼手)

9番 伊藤一隆(捕手)


 だった。


 一方で、日々学校側は、人数ギリギリの9人。主力は以下の5人。


1番 安藤八重(右翼手)

3番 堀節子(二塁手)

4番 鎌倉梅(一塁手)

5番 中川雪(投手)

7番 更科竹子(遊撃手)

 

 ギリギリの人数だったが、その中でも、伊藤が目を奪われた巨漢の女は、4番の鎌倉梅だとわかったし、新渡戸稲造が見とれていた女子は、3番を打つ堀節子だとわかった。


「プレイボール!」

 ペンハローの合図を元に、ついにこの、日本初にして、前代未聞の男子対女子の野球の試合が始まった。

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