番外 『喫茶三日月館』を訪れた女性客

『喫茶三日月館』で寛いでいた女性客は普段は画材屋で働いている。彼女の勤めている店舗で扱っているのは日本画に使われる大小様々な筆や墨、半紙、顔料を溶く用の小皿などである。店主はおじいちゃんだし、お客さんは常連客ばかりで刺激が足りない日々。普段は墨と紙の白黒の光景ばかり目にしていると、休みの日に街へ出てきたときの視界の鮮やかさに、元気を取り戻せる気がする。

 それに今日は、ずっーと来てみたかった『喫茶三日月館』に来店できたのだ。女性客は上機嫌だった。

 使用感はあるもののピカピカに磨かれた銀スプーンでカップの中をクルクル混ぜる。蓄音機からは囁くような女性歌手の英語の曲が流れる。済ました顔をしてホットミルクをちびちび頂いていると、10代半ばくらいの少女が4人、店に入ってきた。

 うわ、五月蝿くされたらイヤだなぁ、と一瞬考えていた。しかし近くの席に座り姿がよく見えるようになると、それぞれ種類の違う美少女たちだったので30秒前に考えていたことは忘れて思わず見とれてしまった。

 定規で測ったみたいにスパッと短く髪を切ったモダンガールに、仔猫っぽいゆるふわ可愛い子、鶴の様にほっそりとした奥ゆかしそうな子、さらには洋装の異人さん! 異人さんはクローシュハットを脱いだら輝く銀髪をラジオ巻きしているのがわかった。全員華やかさと瑞々しさを感じさせて、硝子の器に盛られたパフェのような甘やかな存在だった。

 うわー、すごいーっ、と喫茶店に置いてある雑誌(『アルテミス』という女性向け雑誌。内容はファッション・美容・恋愛相談の他幅広く)を読むフリをしながら盗み見る。だって誌上のモデルより、目の前のファッションの方が勉強になるんだもん、と心の中で言い訳しておく。

 どうやら4人組は同じ学校の同級生らしい。「先生」「部活」「…組の誰々が」と聞こえてくる。

 いいな、と憧れる気持ちが胸の奥に湧いてくる。女性客は尋常小学校を卒業後、親の知り合いが営む日本画の画材屋に勤めだした。そんな彼女からしたら、女学生さんというのは、楽しそうで賢そうで洒落てて憧れの的なのだ。世間から女性が勉強を頑張ることを色々言われていることは知っている。勉強したことを活かす場も限られていることも。『アルテミス』に書いてあった。それでも大きなリボンをして女袴を着てブーツを履いて自転車に乗って、と夢見てみたいのだ。

 本物の『女学生さん』にはなれなくても、次遊びに行くときはあの仔猫みたいな雰囲気の女の子みたいにカチューシャ風の髪型にしてみようかな、古着屋巡りをして猫柄を探してみようかな、など思いを馳せる。

 ゆっくり飲んでいたホットミルクを飲みきってしまった。もう出ようか、と鞄を手に取って財布を探す。

 喫茶店から出て、路面電車を使って帰宅することにした。

 日曜日の人混みに流されながら歩いていると、ドンッと背後から誰かにぶつかられ前のめりになる。反射的に両手が前に出て、転ぶのに備えようとした。同時に、横から伸ばされた腕によって抱えられるようにキャッチされる。


「ワッ!」

「っと! 大丈夫ですか!?」

「あ、あ、大丈夫です。あれ、草履が…」

「お嬢さん! これじゃないかい?」


 弾みで脱げて転がってしまった草履は親切なおばさんが拾ってくれた。急いで受け取って履き直さないと、支え続けてもらうのは申し訳ない。ありがとうございました、とおばさんに言って草履を履き、転ぶのを防いでくれた恩人を解放する。

 こちらの人にもお礼を言おうとして、顔を上げて驚かされた。助けてくれたのは10代半ばの少年だったのだが、顔がいい。男性的な「濃さ」がない中性的な小顔。柔らかそうなさらさらした髪が顎くらいまで伸ばされているのが、尚のこと中性的である。

 今日は美少女美少年日和なの? と思っていると、「あの? どこかお怪我を?」と眉を八の字にさげて心配げにたずねられた。

 いえいえ、ちょとぼんやりしていただけですから、と慌てて否定する。この子、眉の形も綺麗。整えているのかな。

 生成のYシャツに、吊りベルトで留めた黒いスラックス。片手に風呂敷包みと青藤色の地に鼠色、白群が織り交ぜられたくすんだ色合いの羽織りを抱えている。若いのに渋い色合いだと思った。いや、そこじゃない。細身な少年なのに倒れそうになった人を荷物を持ったまま片手で支えてくれたのか。


「あ、あの、本当にありがとうございます」

「いいえ、大したことないですから。それじゃあ、お気をつけて」


 ペコッと軽く会釈しあって、それぞれの方向へ向かい出した後、気になって振り返ってみる。少年は彼女が出てきた『喫茶三日月館』の通りに面したアーチ型の硝子窓のひとつに近づき手を振っていた。店内の人とコンタクトが取れたのか、入り口のある方へ角を曲がって行く。

 女性客は建物と人混みに後ろ姿が隠れてしまったところで、少年を目で追うのをやめた。今度こそ路面電車の乗り場を目指して歩き出す。

 今日は早く寝て、明日は余裕を持って起きよう。心に余裕を持って過ごせば、視野も広く持てるだろう。今日みたいに『素敵なもの』を見つける機会は身近に転がっているかもしれないし。

 前向きな気持ちで休日の終わりを迎える女性客に、立夏まで数日に近づいた温い午後の日差しが見守るようにそそがれる。



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