第16話 二か月ぶりの土曜日

 その日の目覚めは快適なものだった。

 目覚ましの騒音がなければ、桜坂さんの乱入もない。


 自然に意識が覚醒したときの、爽やかな目覚め。上体を起こすと、俺はスマホへと手を伸ばした。


 九月二日。土曜日。時刻は八時二十七分。


 白い天井を見上げ、小さく息を吐く。瞑目すると、昨日の桜坂さんとの勝負を回想した。


 俺が桜坂さんに持ちかけた勝負は、単純明快なもの。


 砂浜に枝を立てて、先に波で流された方の負け。


 勝負の結果は、呆気のないものだった。

 どちらかが勝利を収めるでもなく、二本の枝が同時に波に流された。


 勝負はドローかと思われたが、「二人とも勝ちってことにしない?」と桜坂さんからの提案があった。


 仕切り直してもよかったが、俺は彼女の提案を吞み今に至る。


 一回デートをするだけで、金曜日を抜け出せるのだ。


 そう考えると安い代償だと思わないか? 


 少なくとも、六十回同じ金曜日を経験した者としては、この提案を吞まないわけがなかった。


 かくして二ヶ月ぶりの土曜日。

 目覚ましに邪魔されない起床は快適だったし、テレビの画面も更新されるWeb漫画も朝食も全てが違う。


 そんな当たり前のことに、喜ばずにはいられなかった。


 だが、喜んでいるだけではいられない。

 約束通り、俺は今日、桜坂さんとデートしないといけないのだ。


 反故にすることも出来るには出来る。

 ただ、一度約束を破ってしまえば、信頼は失われてしまう。


 一度信頼を失えば、以降、同じように何か提案を持ちかけることは難しくなる。


 だから、約束した以上は果たさなくてはいけない。

 洗面台の鏡に映る自分と対面する。少しやつれていた。


 パチンと両頬を叩いて覚悟を決めると、デートの待ち合わせ場所へと向かった。


   ※


「あっ、ゆーくん♡」


 待ち合わせ場所たる駅構内。

 土曜日だからか、昼前だというのに人でごった返している。


 彼女──桜坂明里は、俺を見つけるなり猫なで声で呼んできた。


 ヒラヒラと胸元で手を振って、満面の笑みを咲かせている。薄い青を基調としたトップスに純白のスカート。夏らしい涼しげな格好だった。首には黒のチョーカーをつけている。


 白くてきめ細やかな肌が惜しげもなく晒されていて、周囲の目を惹いている。


「いきなりくっつかないでくれ。暑苦しい」


「今日は恋人としてデートするって約束でしょ」


 俺の右腕に絡んでくる桜坂さん。


 邪険に扱うも、一切やめてくれる気配がない。


 恋人みたいにデートする、それが桜坂さんの要求だった。


 この場においては、桜坂さんの言い分が正しい。


「だとしても、ベタベタはするな。普通に暑いんだよ」


「でもほら、あそこにもベタベタしてるカップルいるよ」


 周囲を指さす。

 この暑い中、人目も憚らずイチャイチャしている連中がいた。


「よそはよそ、うちはうちだ」


「あはっ、ゆーくんお母さんみたい」


「何も笑えない」


「せっかくのデートなんだもん。目一杯イチャイチャしようよ」


「俺は触れ合わない、話もしない、どこにも行かないデートが好みだ」


「それデートって言わないよ!?」


 桜坂さんがまともな指摘をしてきた。


 ちょっと複雑だ。


「とにかく、過度な接触はやめてくれ」


「じゃあ、このくらいならいいの?」


 桜坂さんは俺の腕から手を離す。

 そっと、俺の左手を握ってきた。指を絡ませて恋人つなぎをしてくる。


「十分過度に値する」


「このくらいは許してよ!」


 むぅっと頬を膨らませる。

 桜坂さんは恋人つなぎをやめると、俺の服のそでをちんまりと掴んできた。


「じゃあこれなら?」


「これなら……まぁいいか」


 俺が許可を出すと、桜坂さんはパァッと子供みたいに目を輝かせた。


「えへへ……やっとゆーくんが許可出してくれた」


「ほら、行くぞ」


「うんっ」


 かくして、俺と桜坂さんのデートが始まったのだった。

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