8話 賜物を織り継ぐ(2)

 近頃、よく夢を見る。不思議なことに、見ている時はそれとわからないものだ。だから、いつも同じように雨の中で己の愚かさを恨み、絶望に打ちひしがれている。腕に伝わる妹の冷たさが、妙に生々しい。


 ラケは澱んだ名残りを肺から吐き出そうとした。だが、暗いため息はより気持ちを深みに沈めただけで、さほど楽にはならない。


 体をわずかにもたげて、周りの様子を窺う。どうやら今日は寝過ごしてしまったらしい。天幕はもぬけの殻で、外からはみんなが明るく語らっているのが聞こえる。今季の行商を終えてもうすぐ集落という頃合いだからか、いつにも増して浮かれて目覚めが早かったに違いない。誰も起こさなかったことに気を楽にして、再び枕に頭を預けた。もともと夢見はこの一年を通して芳しくなかったが、帰路についてから輪をかけて酷い。


(また会おう……か)


 しき神が去り際に放った言葉の意味が、今ならよくわかる。あれは呪いだ。長く人の中に留まって、付け入る隙がないか常にこちらを見張っている。それを意識すればするほど心を蝕まれ、力を取り戻す足掛かりに仕立て上げられる。


 内側に刻み込まれた傷跡は、表に出ていないからこそ煩わしい。誰かに打ち明けられれば少しは気も晴れようが、おそらく民の多くが大なり小なり同じ悩みを抱えていた。苦しみを分かち合うとて、相手に重荷を背負わせてはもっとやるせない。だからまだ、これは胸に留めておきたかった。幸い、あのまやかしのことを知るのは、ディヤと蛇神だけだ。


「ラケー? そろそろ起きろよ。メシできたぞ」


「……うん今行く」


 この際、呼ばれるまで寝ていようと思ったのに、折悪く入り口の布が捲られた。陽の光に目をくらませて、仕方なく重い体を縦にする。


「遅かったじゃないか。どこか悪いのか?」


「おはよ。いや別に……」


 朝の祈りを終え、挨拶とともに父の隣に腰を下ろす。男たちが急拵えのかまどを丸く囲んで、鍋の中身を自分の器によそっていた。


 シェカル隊では行商最終日に、決まって平原で得たちょっと良いものを食べる。今回はいつもの粥に、芒果アンプ漬物アチャールが添えられていた。酢や香辛料をふんだんに使っているとはいえ、乾物に比べれば日持ちせず、集落の中ではまずお目にかかれない。長旅の疲れを癒すご褒美――のはずが、今朝はどうにもすえたような匂いが鼻について、あまりそそられなかった。胃から込み上げるものに、憩いの輪から思わず顔を背ける。


「俺は、いいや」


 それを聞いて、みんな怪訝そうにする。和やかな雰囲気に水を差してしまった気がして、申し訳なさに下を向いた。


「やっぱりおまえ少しおかしいぞ。遅れを取り戻そうと道を急ぎすぎたのかもしれん。ほら、これだけでも飲めるか?」


 粥の代わりに湯が注がれる。この様子だと、ここにいる誰もがラケの気持ちに多少察しがついているのかもしれない。なんだか途端に恥ずかしくなる。家族同然の人々に対して、強がったり格好つけるつもりはないが、詳らかに打ち明けるのにもまた気力が要るというだけ。器にそっと口をつけ、温かいものが胸を通って胃へ落ちるのを、しみじみと感じていた。


 顔を上げると、仲間たちが押し並べて心配そうにこちらを見守っている。無理に踏み込まず、寄り添おうとしているのがひしひしと伝わってくる。十七になったとはいえ、思えばラケはまだこの中で最も若いのだった。父はもちろん、みんな息子や弟のように可愛がってくれている。どんな励ましの言葉よりも、そんな些細な気遣いが一番嬉しかった。


 自分を偽って明るく努めなくてもいいのだと、受け入れてくれる懐の広さ。それがわかっただけで、もう十分だった。苦しみに押し潰されては、蛇神と同じ末路を辿るだけだ。彼らの真心を糧にすれば、たとえしき神が現れようと、長く悲しみを引き連れて生きることになっても、きっと前を向ける。


(あいつの思惑通りになってたまるものか)


 少しずつ時間をかけて、器の中身を綺麗に飲み干した。体が潤えば、散り散りだった頭もようやくまとまってくる。そういえば相談ならはまり役がいた。彼に吐き出すのは不本意だが、集落の誰かに心配をかけるより、ひとまずいいだろう。


「ありがとう。だいぶ落ち着いたよ。お粥、やっぱちょっと貰おうかな」



***



 そろそろ乾季が終わる。恵みの雨が大地を濡らせば、やがてこの谷間も青い草地に変わるだろう。牛鈴がヤクたちの歩みに合わせて緩やかに律動を刻み、急く足をたしなめてくれる。ふと、視界の先に色鮮やかなものが見え始めた。災い除けの旗だ。それらは風にひらひらと舞って、隊商の帰りを喜んでいた。


「あと少しだ。頑張ろう!」


 前を歩く隊長の呼びかけに、雄々しい歓声が上がる。ラケもヤクの轡を引きながら、はやる気持ちを抑え、一歩一歩、地を踏み締めて進んだ。やはり朝ごはんを食べて正解だった。体の奥底から力が漲ってくる。軽やかな足取りで五色の切り通しを抜け、光差す方へ向かう。


 集落の門を潜ると、気圧されるほどの活気に包まれた。出店でみせ賑々にぎにぎしく軒を連ね、お供物がずらりと並んでいる。人々が忙しなく行き交い、あちらこちらで笑顔の花が咲いていた。来た道とは比べ物にならないほど多くの旗が張り巡らされ、それに負けじと家々の壁面には華やかな織絵巻タペストリーが掲げられている。


 今日は夏至にして、雨季迎えの祭りの日。あの災いからちょうど一年が経っていた。


 まだ爪痕は深々と残されているが、少しずつ手を入れて、助け合いながら暮らしを繋いでいる。むしろ立ち直る勢いは凄まじく、今季の行商で捌いたものは、ほとんどあの後に作られたものだ。無事だった材料や道具をかき集め、寝る間も惜しんで織られた品々は、平原の人々の心をも打った。


「神の恵みをあれだけ身をもって感じたのに、それを形にしなくて何が職人か! ってね!」


 母曰く、こういうことらしい。まったく、その強かさには恐れ入る。


 機屋のそばでいそいそと荷解きをしていると、広場の方から二人組の少女が駆けてくるのが目に映った。そのうち一人は妹のアニタだ。ぴょんぴょんと跳ねる姿は活力に溢れ、今朝の夢がただの取り越し苦労だと見事に裏付けられた。


「お兄ちゃん、おかえり!」


「ただいま。みんなに変わりはない?」


「うん。元気でやってるよ。それより、ねぇ! 何か気が付かない?」


 そう言って手を腰に当てる。得意げに胸を張る妹をまじまじと眺めて、彼女の見せたいものを探った。一つだけある。見送りの時とは違うところが。


「もしかしてこの衿、おまえが?」


「えへ……あたり!」


 真新しい掛け衿の織模様に触れてみる。滑らかな質感と、つややかな糸本来の輝きが活きていた。目の詰まり具合はまだ甘いが、成長すればもっと力強く織れるようになるはずだ。


「すごいじゃないか。母さんのと見違えたよ。これなら次の行商にも持っていける」


「ほんと!? やったぁ!」


 興奮気味に弾む頭を、落ち着けるように撫でる。これだけ丁寧な仕事は、今までの彼女には見られなかった。どこか強い想いを秘めた瑞々しい逸品は、買い手がついてもおかしくない。本人の自信に繋がって良い品も増えるだろうと思えば、先がますます楽しみになる。


「おーい! そこにいるなら、ちょっとこっちを手伝ってくれ。ほら土産もあるぞ」


 ヤクの背から荷物を降ろしていた父が、アニタを手招きする。


「はぁい。じゃ、また後で」


 兄ともう一人にひらひらと手を振って、慌ただしく去っていった。残された少女はラケにふわりとはにかむ。長いまつ毛から覗く大きな黒い瞳に、健やかに赤らむ丸い頬。雰囲気は柔らかくなっても、品の良さは変わらない。


「おかえり」


「ただいま、ディヤ」


 二人の間を軽やかな風が流れていった。数多あまたの旗が一斉に翻り、陽の光を透かして地面には虹に似た色とりどりの影が揺らめく。


 ディヤはゴダとハティラの元で暮らしている。最初は集落の人々も元現人神にどう接したら良いのかわからず、お互いおそるおそる距離を探っていた。今では人柄と持ち前の好奇心も相まって、すでに溶け込み始めている。


 練習の末話せるようになっても、けして口数の多い方ではなかった。それでも彼女の周りには自然と人が集まって、慣れない中でも気持ちを通わせていた。そうやってみんなと関わるのがとても楽しいのだと嬉しそうに語る姿に、あの時折れなくて本当に良かったと何度思ったかわからない。


「アニタと仲良いのか? あいつはおしゃべりだからなぁ……ディヤに迷惑かけてなければいいんだけど」


「ううん。そんなことない。右も左もわからないわたしに、色々なことを教えてくれる。機織りもね、少しずつ手解きを受けてるの。アニタは友達だけど、先生でもあるんだから」


「なるほどね」


 やる気の源はこれかと頷いた。妹は誰かの手本となることで、力を出せる気質だったらしい。世話焼きの腕前は、弟たちへの接し方を見ていれば明らかだ。


「そういえば蛇神は? あいつ上手くやってる?」


 ディヤは笑いを含んだため息をつく。


「元気を通り越して、いつも気分が落ち着かないくらい。今日も小さい子たちと一緒じゃないかな」


 指差す向こうで、半身半蛇の大男が群がる幼子たちとじゃれあっていた。背へよじ登ったり腕にぶら下がったりと、されるがままだ。黄色い声を浴びてさらに楽しげにする姿は、もう遊んでやっているというより、遊んでもらっているようにさえ見える。


「はは……威厳も何もないな、あれは」


「わたしたちの中に封じられていた頃、『崇め奉られるよりは、直に接していたい』ってよく話してた。だから今のチャンカヌ・バダル様は、とっても幸せそう」


 据わりが良いとウルバール湖を住処とし、折に触れてここまで下りてくる。人好きのする気質はすぐに伝わり、親しくなるのにあまり時間はかからなかった。ディヤも生まれてこの方蛇神と一緒だったため、近くにいると落ち着くらしい。


「それにしても、現人神様の中身が蛇神だったなんて、初めは信じられなかったよ。……イェンダが授かった天の神様の祝福――ってのがそれなりに自慢だったんだけどな」


 ずっとそうだと思い込んでいたから、やはりどこか惜しい気持ちがある。別に彼のことは嫌いではないが、母なる神は別格だ。


「えっ、お恵みなら今も受けてるのに」


 ディヤは驚いたように目をしばたかせ、やがて何かに気付いた風であわあわと口元に手を当てた。


「ええっと……ごめんなさい。もう話した気でいた。あの言い伝え自体がまったくの嘘という訳ではなくて……!」


「どういうこと?」


「あのね。天の神様が与えてくださったのは、現人神の力じゃない。本当は機織りの才なの。山が荒れても、手仕事で生きていけるように。つまり……」


 ディヤはすっと息を吸うと、ラケを改めて見上げた。


「恩寵を授かっているのは――この集落で機織りに携わる、全ての人たち。だから、もし現人神の任を解かれた暁には、織り物をするのが夢だったの。わたしたちにしか作れない、わたしたちの誇りそのものを謳歌するために」


 あっけに取られて、今度はラケが目を点にする。幼い頃、母はまるで神様みたいだ――と。それはあながち間違いではなかったらしい。思えば天の神様は、氷河湖でも大いに助けてくれた。やはりイェンダは特別な情をかけられている。それを改めて感じ、彼女の言葉がすとんと腑に落ちた。


「……大変だ。それを聞いたら、みんなこれまで以上に張り切っちゃうよ」


 見つめ合って笑みをこぼす。集落を吹き抜ける清々しい風に顔を上げて、遥か東の大いなる山を仰いだ。いつも変わらず静かに見守ってくれた白い頂へ、固く誓う。その心意気に応えられるよう、これからもずっと、ここで生きてゆこうと。



〈篤き恩寵のイェンダ おわり〉

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篤き恩寵のイェンダ 三津名ぱか @willerik0213

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