S、最初に筆を折りかける

 Sが最初に筆を折りかけたのは、2015年秋から2016年春にかけてであった。

 この頃Sが書いていたのは、ある新作オンラインゲーム(といってもプレイ形態はほぼソロだが)の二次創作であった。見目麗しい男性キャラクターたちが数十名用意され、プレイヤーはあるじとなって彼らを束ねる。

 腐向け(BL)の書き手であるSは、ある人気キャラクター2人の組み合わせを中心に、思いの滾るままに妄想を吐き出していた。



 しかし、Sの小説は読まれなかった。

 2015年秋、同じカップリング(※恋愛関係になるキャラクター2名の組み合わせのこと)の書き手が集まった同人誌即売会で、Sは大惨敗を喫した。

 カップリングは腐向け二次創作の基本単位であり、書き手も読み手もこれをもとに作品を探し、交流し、コミュニティを形成する。それゆえ、カップリング限定の集まりが設定された即売会では、通常より来訪者も売上も増える……のであるが。

 書き手も読み手も多数が集まり、あちこちのブースで新刊完売が続出していた即売会で、Sの新刊売上は3部であった。熱気と歓喜に満ちた会場内で、Sはひとり大きなダメージを受けた。


 原因は明らかだった。Sの嗜好は同じカップリング内で明白に浮いていた。

 甘い恋愛ものが主流のカップリング内で、重苦しい長編小説を書いていた。推しキャラのかわいらしさを主軸とする話が主流の中で、笑顔の裏に垣間見える冷徹さや残酷さを好んでいた。

 周囲との絶望的なズレはSも認識しており、即売会閉会後には執筆活動の今後について深く考え込んだ。長考の末にSが出した結論は「ためしに一度、全力で読者に媚びた話を書いてみる」ことであった。

 結果が出るにせよ出ないにせよ、一度試してはみよう。後のことは実験の結果を見て考えよう、と。


 これが致命的に裏目に出た。

 自身の書きたいものと外れた話を、情熱を持って書き進めることはSにはできなかった。みるみるうちに意欲は失われ、筆は鈍り、最後には止まり、全3冊で完結予定であった物語は2冊で打ち切られた。それでいて売上は微増に留まり、感想や反響も得られなかった。

 この時、書きたくないものを無理に書こうとして苦しんだ経験は、Sにとって大きな傷になった。自分は読者の嗜好に合わせることができないのだと自覚したSは、以後、自分の好みに反する話をあえて書くことはなくなった。



 ちょうどその頃、Sは別のカップリングに関心を持ちはじめた。

 愛好者の少ない、率直に表現すれば「マイナー」なカップリングではあったが、それゆえにコミュニティ内には、どのような傾向も受け入れる雰囲気があった。人口が少ないゆえに作品も少なく、供給は貴重だった。

 そこでSが書くものは歓迎された。2016年春に出した最初の同人誌は、初版50部を完売し第2版を制作するほどであったし、その後も初動で十数部程度は安定して頒布できるようになった。

 安住の地を見つけ、再びSは自身の好みのままに話を綴るようになった。



 以後数年、このカップリングでSは書き手として平穏な日々を送る。

 ある日、Sはとある漫画家の創作相談コラムを見かけた。二次創作において「周りと解釈が違う」ことに悩む相談者に、漫画家は「作品で殴る」ことを勧めていた。腕を磨いて良い作品を作れ、そうすれば周りに影響を与え、流れを作れる可能性もあるのだと。

 この回答にSは感じ入った。前カップリングで自分はそうすべきだったのか、と思い返したりもした。

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