玻璃の航跡

若菜紫

第1話 玻璃の航跡

『玻璃の航跡』


雨が降る

子供服売り場に

天井から光が降る

子ども服売り場が消える

そうだった

あの日

天井から光が降っていた

今日は雨が降っている


紛うことなき沖の方を目指し

船がゆく

頬に目に刺さる飛沫

その煌めきから目を逸らすまい

その煌めきを見逃すまいと

舳先に乗せられた私自身の声を聞きながら

帆柱にしがみついて

時々振り向いて

来し方の跡を目に焼きつけていると

目指していた航路も

いつしか海に刻まれていく


雨が降る

子供服売り場に

天井から光が降る

子ども服売り場が消える

そうだった

あの日

天井から光が降っていた

今日は雨が降っている


『ニケの抵抗』


縞模様の無彩色が

色とりどりであるはずの

動く点描を押し上げ

散らばらせる

この場所

渋谷駅にほど近い

スクランブル交差点

ポセイドンの王国かと

見紛う波模様に歪んでいく


点描の一つとして

埋もれること

そのことに

怖れさえ抱かず

お下げ髪のほつれにすら

夏の風を感じていた

独りよがりの幼いニケが

篝火を携え

記憶の海をよぎった


吹き消しかけたまま

ニ十年余りも燃え残った

無数の蝋燭が

ハデスに抗い

掌を灼いた


『ミルフィーユ』


「R、お前だけが特別じゃねえんだ。」

同級生との揉め事を訴えた時

私の嫌った当時の担任が

あの日放った言葉を

伝える

現役の小学校四年生に

三十年前の小学校四年生が

という立場で


「Rちゃん、お母さんにも感情というものがあるのよ。」

反抗期真っ只中にいた

私に放たれた言葉

十歳の少年に

三十年前の十歳だった少女が

伝えようとする

あの日私を諭した

少年の祖母

親子の様子を

はらはらと見守る


「みんな楽しくなければいけないよ。」

今となっては

もう再現できないレシピ

秘密のスパイス

を入れてパンケーキを焼きながら

伯父が呟いた言葉

二十五年前

思春期を抜けようとしていた

女子高校生


聞き流され

うち捨てられた言葉は

重なり

香ばしく焼き上げられ

還らぬ日々が

甘さを伴って


少年が

パンケーキを焼く

何かを振り切ったように

フライパンを熱し

冷まし


秘密のスパイスは

どんな味がするだろうか


解らぬまま

パンケーキに

いちごを乗せる



『青い渦潮』


黒地に手描きされた

波の模様が渦巻く

子どもらしい筆字で書かれた

それぞれの好きな漢字が躍る


三等賞を表す青いシールは

手作りの衣装に隠れて見えぬが

体操着に貼られたままだろう

はち切れんばかりの笑顔

ゴールする瞬間に見た

あの笑顔を探すが


黒と青の渦潮

うずうずと

渦巻く波間に一瞬

きりり

とした横顔が覗いて

きらり

波のかけらのように

日差しが輝く


抱き寄せようとした

掌同士を打ちつける

抱き寄せたい想いを

会場の拍手の渦に

果てしなく紛れさせながら


『夏の名前』


ずいぶんと

遠くまで来てしまった

一時間足らず前の

ひとこま

ひとこまを辿りながら

夏の名前を訪ね訪ねて


駅の改札にPASMOをタッチする

という音が鳴る

一人分の音が鳴る

ひよこの鳴き声が

今度は聞こえない


横浜方面行のホームに佇む

電車に乗り込み

自由が丘駅で下車し

ビルの化粧品売り場へと階段を降りる


「なかなかいいんじゃない。」

二日後の待ち合わせを

彼の言葉を思い浮かべながら

探している頬紅の色合いを

店員に尋ねる


ストロベリーミックス

と名付けようが

マカロンピンク

と名付けようが

マーブル模様に固められた

パステルピンクの濃淡

という組み合わせに変わりはない


いちごを食べたい気分や

マカロンを衝動買いしそうな気分

その時々の気紛れに左右され

名前で化粧品の色を選んでしまう姿は

男心にどう映っているのだろう


「オレはいつもの。ママはどうせこれだろ。」

まだ声変わり前の口調を思い返しながら

地上へと戻り

「期間限定」と書かれた看板に目をやる


「八ヶ岳はもう明後日か。」

「そう。行ってしまえば楽しいと思うよ。」

「このクレープ屋さんにいつから通っていたっけ。」

「Kが3歳の時からだから、もう8年ね。」


エメラルドグリーンのアイスクリームと

透き通ったブルーのジュレ

チョコミントアイスとミントジュレ

と書かれた看板の前を素通りする


限定品

と記されたものを

いつも選んでしまう姿は

幼心にも

子どもっぽく映るのだろう


頬紅のことを考えて

クレープを食べる手を

ぼんやり止めてはいなかっただろうか


エメラルドグリーンと透き通ったブルー

そんな親子の夏が

パステルピンクをした

恋人向けの夏へと

暮れゆくように変化する


旅立つ先の八ヶ岳

夏はどんな色をしているのだろう



『夜の底』


夜の底に

ねじをひとつ

落としてしまった


駅前のスーパーで買い物をして

野菜を切って

魚を焼いて

炊飯器のスイッチを入れて

問題集に目を通す

代わりに


母とグラスを合わせ

テレビの画面が揺れるままに

ハワイアンのCDをかけ

本のページを捲り

ドライフルーツを摘んで


コップの底から

光の屈折に乗せられた

十円玉が浮き上がるように

窓から差し込む朝日が

夜の底を浮き上がらせる

その時まで


『遺失物』


子ども部屋に置き忘れていた

飴色に香る

ひと粒の涙

いつの間にか

拾われて

小さい掌に

握られてしまったよ


   『女詩人の運命』


女詩人の運命は

買い物袋を膝に乗せて

メトロに揺られながら

スマートフォンの入力機能を利用して

詩を書くことだ


「ニ歳児を育てています」

彼女の言葉を境に

フロアのツリーが煌めき出した

クリスマスソングが響き出した

私と彼女とを

久しく見ていなかった

光の渡り廊下が繋いだ


160サイズの子供服を

ケースの上に並べ

材質や見た目の特徴を

にこやかに説明する彼女と違い


シンプルな黒いズボンや

チェック柄のシャツを

幾つか見繕う私が

スマートフォンのカメラで追うことは


もう

ない


子熊のアップリケがあしらわれた

カラフルなトレーナーや

動物の耳を象った

毛糸の帽子を身に着け

走り回る幼子の姿


それが


光の向こうに視えて


単なる客と店員

見知らぬ同士の二人にしては

長過ぎる立ち話の後


輝きを取り戻した世界

それらを

じっくりと眺めもせず

カメラに収めるでもなく


私は下りのエスカレーターへと

足を踏み出した


女詩人の運命は

過ぎ去った日々を想う

拙い詩を書きながら

詩の登場人物に

気を配ることだ

今は160サイズの服を必要とする

人物の待つ家へと急ぎ

入力中のスマートフォンを仕舞う間もなく

電車を乗り継ぐことだ


『紅葉狩りに行きたい』


紅葉狩りに行きたい

赤や橙や黄色の

目も覚めるような一面の紅葉(こうよう)

ではない


新緑の中

短い枝にぽつん

咲き遅れた一輪の桜や

秋雨の降る朝

赤紫の花びらを

小さく縮らせ

震わせて咲く江戸朝顔

のような

ひとひらの紅葉

枯れ葉の中に紛れ

木枯らしに吹かれながら

自らを赤々と染め抜いた

ひとひらの紅葉を

心ゆくまで眺めていたい


「元気になったらまたK公園に来たいね。」

遠足残念だったね

という言葉を呑み込み

珍しく手を繋ぎながら

歩く病院の廊下

窓の向こうに広がる

赤や橙や黄色の

目も覚めるような一面の紅葉

の中にあるはずだった想い出は

居場所を失くしたまま

何処をたゆたっているのだろう


「あー腹減った。帰りてー。」

屈託のない言葉のように

私を慰め

降り注ぐ光の粒の

流れ来る川上へ

自動ドアを抜ける


紅葉狩りに行きたい

金色の光を独り占めに

きらきらと纏って

赤々と輝く

ひとひらの紅葉を見るために


『冬の旅』


記憶の中で

その人は

シューベルトの「冬の旅」を歌う

歌うともなく

伴奏だけを流している

その人と訪れた町を通り

私は新幹線の座席に腰掛けている

窓の外に広がる

枯草色に乾いた田畑や

黒々とした林の影や

水墨画のような山並みと冬の空を眺め

その人から贈られた本を読み

夜中で詩の書き出しを思いつき

スマートフォンを開く

抗えない車両の速度

利用すべきものでありながら

冬の夜の魔王のように

私を支配する

抗えない時の流れ

あちらこちらから

丹念に選び集めた敷石で

その道のりを埋め尽くし

歩いていくのだと決め

今はせめて

轍の揺れを感じてみる

すでに敷かれている石による揺れを

背中いっぱいに

目的地へと新幹線が着く

その瞬間まで


『忘れていたものを』


「忘れていたものを思い出す」

遊園地で買った駄菓子に添えられていた

おみくじの言葉


半年ぶりか

いや

もっとだろうか

久々の遊園地に

息子は大はしゃぎ

体調不良が続く前と変わらず

小学生らしい屈託のない笑顔


アトラクションにおける

荷物入れの構造も

飲食店の売り切れ具合も

まとめ買いが人気の

土産物の値段も

おそらくは

「忘れていたもの」に含まれるだろう


「いやー、消しゴムの置き場所思い出してーわ」


何気ない一言と

続く笑い声に

思わず涙が零れそうになり

「忘れていたもの」を

一つ

そして

もう一つ思い出し

願いと共に

おみくじをしまい込む











































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

玻璃の航跡 若菜紫 @violettarei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ