第44話 目覚めは近い

 離宮の者たちはローゼが配り歩いた眠り薬入りの茶によって、夜明けまで眼を覚まさないらしい。


 幸いにユスティーナはドレスならとにかく、武装であれば一人で身に付けられるように訓練している。腰と太腿の突っ張りを感じながらも、なんとか着替えを済ませられた。


「お待たせしました!」


 間仕切りの向こうから姿を見せた彼女は、黒髪を動きやすいよう、一本の長いおさげにしている。それ自体は訓練時と同じだが、純白に清らかな濃紺をあしらった清廉な武装は、銀月の君として戦場を駆ける際の正装だ。


「……、その格好は、久しぶりだな」


 淡く差し込む月光に照らされたユスティーナの姿は、リラほどの審美眼の持ち主でなければ、在りし日の銀月の君そのものだ。ヴァスはまぶしいものでも見るように瞳を細めたが、ユスティーナも彼の格好に新鮮な驚きを与えられた。


「え、ええ……ヴァス、あなたも……」


 人間の姿を取るようになっても他に服がないため、警備兵の服を着崩して過ごしていたヴァスであるが、ナインがこっそり送って寄越したのだろう。彼もまたユスティーナの着替えと同時に、幾度となく戦場で見かけた、漆黒の鎧に黄金と深紅を散らした鮮やかな武具を身につけていた。


「正直なところヴァスは猫さんの姿のほうがいいな、と思っていたのですが……こうやって見るとあなたって、やっぱり格好いいんですね」

「遅い!!」


 とりあえず突っ込んだヴァスだったが、状況が状況でもあり、すぐに引いてくれた。


「だが、分かっただけ前進だ。行くぞ」


 さっと踵を返すに従い、石榴石のような髪が月光と武具の輝きをまぶしたように光る。人間のものとしては奔放に伸びた髪であるが、猫の時ほどの量はない。そうふわふわしているようにも見えない。


 だというのに、どうしてかユスティーナは、ヴァスの髪が描く赤い軌跡に引かれるものを感じた。


「どうした、やけにオレをじろじろ見るな。人間のオレの髪にも触れてみたくなったか?」

「いえ、そうではないですけど……」


 もうしっかり手すりを掴む必要もなくなった階段を降りていきながら、ユスティーナは目の前で揺れる暗い赤毛を見つめる。


「あなたのことを……もっと見ていたいって、思いました」


 五歳の時、ユスティーナは輝く太陽、イシュカに出会った。その対として選ばれ、愛を受け、代償として彼の光に心の眼を潰された。


 よそ見をするなど許されない。まして獣返りに眼を奪われるなど、あってはならないはずだったのに。ごく自然と、そんな言葉が口を突いたのだ。


「そ……、そうか」


 自分で振っておいて赤くなったヴァスは、先に降りていたローゼに「おい、いちゃついてねえで早くしろ!」と催促され慌てて速度を上げる。ユスティーナもなぜか頬の熱さを覚えながら、彼の後を追った。


※※※


 ユスティーナもヴァスも御者を務められるのは事実である。ユスティーナは獣に愛され、ヴァスは獣に近い。普通の人間よりも馬と心を通じ、従わせる力が強いからだ。


 その上でユスティーナは激しく揺れる馬車の中から、御者台で見事に馬を駆るローゼへと話しかけた。


「やっぱりあなたは優秀な御者ね、ローゼ」

「なんだ、急に。これしかできない、の間違いだろ。戦士としちゃ、お前やヴァスの足元にも及ばないんだからよ。おっと、感謝する!」


 カイラ山の麓、馬車道に作られた門を潜りしなローゼは軽く手を上げた。


 事前に門を開け、彼らを通してくれる兵士たちへの礼儀だ。すんなり開門してくれたのは、ユスティーナが風の術によって頼んでおいたからであるが、そこできちんと挨拶をするのはローゼの性格である。ヴァスはこういう時に偉そうにしてしまうから誤解されてしまうのね、と思いながらユスティーナは言った。


「あなたが私たちより弱いのは事実ですけど」

「慰めろよ! イシュカに歪められた部分もあるだろうが、お前のそういうところが前から嫌いなんだよ俺は!」


 悪気なく傲慢というか、己の高い実力を当然として謙遜しない傾向は昔からあったのだ。怒鳴り付けられたユスティーナは困った顔をして反論した。


「でもローゼは、ナインのように、見え透いたおべっかで喜ぶ人ではありませんし……」

「……本当に、そういうところだよ……」


 みえみえの慰めを与えられ、浮かれられる性格ではないとローゼも自覚はしている。幼馴染みとの格差を思い知らされながら育った彼は、陽気な振る舞いに反して卑屈な部分を隠し持っているのだ。


 けれどユスティーナにとってのローゼは、そこも含めて愛しい幼馴染みなのである。


「私もヴァスも、御者としてそれなりの腕はあるでしょう。生まれつきの力を持っていますから。ですがあなたは、お父上がすばらしい御者でこそありますけど、それ以外の何かに恵まれたわけではありません」


 戦闘能力の話をするなら、自分やヴァスに勝てる相手となると、名将ドルグでさえ年を取り過ぎていた。ローゼが卑屈になる必要はない。彼の価値は、そこではないのだ。


「それなのに、ここまで馬の力を引き出せるのですもの。いいえ、馬だけじゃない。私も含めて離宮のみんなも、あなたが帰ってきてくれて本当に喜んでいたし、離れていた時間などなかったかのように受け入れた。ローゼ、あなたの人徳です!」


 追い出されてしまったローゼ父子のことを、離宮の人々はずっと気にしていたのだ。ユスティーナも侍女たちなどのごく親しい相手にだけは、できれば彼とは戦いたくない、と漏らしていた。


 事情があるとはいえ、殺意を向けてきたローゼへの親愛は途切れなかった。それは彼に、人間的な魅力があるからだ。


「あなたが振る舞った眠り薬を、みんながあっさり飲んだのも……あなたの人徳です」

「喧嘩売ってんのか?」

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