第37話 手の届かない姫君

「? っお、おい、ヴァス!?」


 暗い赤毛に覆われた、巨大な獣が毛を逆立ている。そんな幻覚に襲われたローゼが思わず壁際まで後ずさった。我に返り、強い殺気を引っ込めたヴァスは、いっそ優雅なほどに冷たく微笑んだ。


「だからこそ、取り入った価値があるということだ。あの月は一度太陽に捨てられ、地に叩き付けられた。もう一度持ち上げ、思いきり叩き付けてやれば、今度こそ粉々に砕け散る」

「……その調子なら、心配はなさそうだな」


 額ににじんだ汗を拭い、ローゼはなんとか笑顔を作る。ヴァスに感じた恐怖を振り払うように、彼は殊更明るく提案した。


「なら、さっさとこんなところ出て行こうぜ! ナイン様はヴァス、一番戦力になるお前さえ戻ってくれば、すぐにでも兵を挙げるおつもりなんだ」


 ナインが負けてしばらく、ローゼが身を隠していたのは事実である。しかし彼はユスティーナへの復讐を諦めておらず、秘密裏にナインに接触し、彼も同じ気持ちだと確認した。


 そこへヴァスが生きてユスティーナと共にカイラ山の離宮にいる、との情報が入ってきた。どういうことだと混乱しながらも、ローゼはあそこなら自分が潜り込めるだろうと申し出てた結果、今ここにいる。


「道理ではあるが、ならばこちらの戦力を削いでから合流したほうがいいだろう」


 ローゼの計画にうなずきながら、ヴァスはもう一段階上の提案をした。


「ここを出て行くのは、オレがあの女を殺してからだ。本来、そのために来たのだからな」


 再び振りまかれた殺気に──憎悪に、ローゼはぎくりと身を竦めた。


※※※


 最近ユスティーナは、毎日が楽しくて楽しくて仕方がない。


「……ッあ!」


 その心のままに放った矢によって、バキッ、という音を立て、的がまた一つ破壊された。


「……今の威力だと、保って五十本か」


 きれいに割れた的を眺め、ヴァスが慣れたしぐさで交換を始める。山籠もりは諦め、離宮の訓練場にて彼の指南を受け始めてから五日。ユスティーナの矢の威力は増す一方である。


「そのようです。ごめ……いえ、ありがとうございます、ヴァス」


 器用な手付きで的の交換をしているヴァスに礼を述べるが、ヴァスは振り向きもしない。


「感謝も要らんと言っただろう。──銀月の君は、獣返りに感謝などせん」

「ですが今のあなたは、私の師匠ですし……おかげさまで、かなりやせましたし。弓の腕も取り戻しつつありますし」


 連日の訓練に次ぐ訓練により、ユスティーナの体は日ごとに絞られていっている。単純な食事量の制限によってたるんでいた皮膚が、筋肉に引っ張られ収まるべきところに収まっていく。


 弓の技については、むしろ以前より上がったのではないかと思うほどだ。生物としての作りそのものが異なるヴァスの技を模倣しようとすれば、これまでと体の使い方を変えなければならない。


 普通の人間なら無理だと諦めるところだが、やると決めれば貫く性格がいいほうに働いていた。術による補助を駆使し、このまま工夫を重ねていけば、きっとヴァスも満足してくれるに違いない。


 中身についてもヴァスの満足を求めるのならば、彼の言うとおりにすべきなのだろう。しかし、猫の姿の時から数えれば、この離宮でヴァスと過ごし始めて一月は優に過ぎた。互いに命を狙い合っていた頃には分からなかった、多くの情報を得た。


 そしてユスティーナは獣に愛される宿命を持つ。獣の心が、なんとなく分かる。


「ねえ、ヴァス。前にも似たようなことを言いましたが、私に感謝されるのが絶対に嫌、というわけではないでしょう……?」


 師匠という立場になったせいか、ここ最近のヴァスとは少しばかり心の距離を感じることが多い。ユスティーナはそれに不満を言えるような立場ではないが、そのせいでヴァスを満足させられないようでは困るのだ。


「あなたとここで再会してから、いろいろなことを考えるようになりました。イシュカ様のことも、含めて……」


 ローゼと再会する寸前まで、ヴァスはやたらとイシュカのことを口にした。その時はうまく答えられず、強引に話を逸らしてしまったりもしたが、彼の言葉は一言一句覚えている。まだ消化できていない、……してはいけないようにさえ感じる部分も多いが、ヴァスが自分のために真剣に語ってくれたことは理解している。


「あなたは思っていたよりも、いいところが多い人です。あんなに冷たく当たった私にも、こんなに優しくしてくれる。そういう人は、報われなければなりません。そういう世界を、私は目指さなければなりません」

「……また高貴なる義務か。どうせ長くない命のくせに、まだ見栄を張りたいのか?」


 ようやく振り向いてくれたヴァスだが、単に仕事が済んだだけのようだ。ユスティーナとすれ違い、後ろから型を確認する立ち位置に戻りしな、鼻で笑われてしまった。


「そう……ですね。そうなのかも、しれません」


 ユスティーナも振り返り、的と太陽に背を向ける。逆光を背負い、彼女は意識して高慢に微笑んだ。


「そういう見栄を張っているわたくしのほうが、あなたの求める銀月の君らしいでしょう?」


 声もなく、ヴァスが眼を見張る。絶句している彼の葛藤を感じ取ったユスティーナは、肩の力を抜いて言い聞かせた。


「ですが、ヴァス。私が長くないからこそ、あなたには本当に求めるものを得てほしいのです。復讐の機会は、一度しかないのですよ」

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