第25話 闇の温もり

「では、おやすみなさい」

「……ああ」


 肉を包むに使った以外の猪の皮を掛け布団代わりにして、ユスティーナとヴァスは互いに背を向けて寝転がる。


 落下防止の壁は付けてあるが、高さとしては壁というより柵だ。葉の天井をうっすら透かし、降り注ぐのは月光のみ。太陽に置き去りにされた銀月が、闇の向こうで独り輝いているのがよく見えた。


「……イシュカ様……」


 山籠もりに向けての調整で張り詰めていた気持ちが、少し緩んだからだろうか。心身共に鍛え直し、かつての銀月の君に近付いたからだろうか。唇が勝手に、去った恋人の名を形作った。


 今頃彼は、どこで何をしているのだろう。……どんな人と、一緒にいるのだろう。


 期待外れの婚約者を捨て、身軽になったイシュカが誘われるままに放浪しているらしいことだけは知っている。主に、女性たちの間を。


 それ以上は恐ろしくて知りたくなかった。離宮の者たちにも、律儀に手紙を送ってくれる兄王にも、イシュカの現状については知らせてくれるなと頼んでいる。


 そもそも、今回のイシュカはアルウィンを王とし、ユスティーナを導きナインの内乱を抑えるために生じたものと思われる。役目はすでに終えた。もう用はないとばかりに、何処へともなく姿を消している可能性も高い。


 ユスティーナが息をしている以外の何もできず横になっていたことも、暴飲暴食に走ってぶくぶく太っていたことも、ヴァスに復讐されるためにがんばっていることも、イシュカは知らないだろう。もう、興味もないのだろう。以前よりは弱まった、それでも十分鋭い苦痛が胸を軋ませ、皮膚に痛みを走らせる。


「ひゃっ!?」


 不意に、背中に何かが触れた。ふかふかとした、温かい何か。驚いて振り返ると、猫の姿を取ったヴァスがそこに寝そべっていた。ユスティーナ自身が月光を遮っているため、ヴァスの姿も闇に沈んでいるが、金の目だけが自ら光を発している。


『オレの暖房になれ、ユスティーナ』


 念波での命令を理解するまでに、少し時間を要した。


「……火の術を、ご所望ですか?」

『違う! こんなところで使ったら山火事になるだろうが! そうではなく、お前がオレの暖房となり、オレがお前の暖房になるということだ!!』


 怒りの念波を発した勢いで、ヴァスが体を押しつけてくる。もふもふとした腹の毛と、ユスティーナのかなりふくらみが減った腹が触れ合う。爪を引っ込めた前足と長い尾が、腕や足をそっと撫でてくれた。


「優しいのですね、ヴァス……」


 微笑んだユスティーナも自ら腕を伸ばし、ヴァスを抱き寄せた。元の身長ほどではないが、猫としてもかなり大きな体はユスティーナの胴ぐらいの長さがあり、抱き付き甲斐がある。温かく、ふかふか柔らかく、ユスティーナを否定しない。


「あったかいです。ヴァスも、私の体、あったかいですか……?」

『ま……まあな。まあまあだな。まあまあだな』


 自分で持ちかけておきながら、ヴァスは時折、腕を伸ばしてユスティーナを拒否するような姿勢を取る。彼にとってのユスティーナは最後の最後まで自分を小馬鹿にし続けた嫌な女なのだ。それなのに、ユスティーナがいつまでもめそめそしているものだから、元気づけようとしてくれている。なんとすばらしい人なのだろう。


「今日は不甲斐ないところをお見せしましたが、あなたで暖を取った以上、明日からは必ずこの恩に報いてみせます。修正していただいた弓の構え、必ずや我が物としてみせます!」


 張り切るユスティーナの足を、ヴァスはぽふぽふと太い尾で軽く叩きながら『それよりも』と切り出した。 


『明日……、行きたいところがある。付き合え』

「え、ええ……、もちろん」


 やけに改まった調子で言われ、ユスティーナは動揺を抑えてうなずいた。


※※※


 翌朝ユスティーナが目覚めると、ヴァスは先に起きて人型を取り、木の下で朝食の用意をしてくれていた。彼が汲んできてくれていた水で慌てて顔を洗い、身支度を調え、昨日の残りの猪肉で食事を終える。


「食ったな。一応武器は持っておけ。では、行くぞ」


 弓を手にし、おもむろに立ち上がったヴァスに従い、ユスティーナも緊張した顔で歩き出した。


 ところが目的地について尋ねたところ、意外な言葉が返ってきた。


「えっ、この森の中、ですか?」

「なんでカイラ山を降りるんだ。人目に付きたくないと言ったのは貴様だろうが」


 猪その他との遭遇を警戒し、油断なくあたりに目を配りながらヴァスが言い返してくる。同じように探査の風を周囲に張り巡らせながら、ユスティーナはさらに言い返した。


「行きたいところがある、とおっしゃたあなたは、なんだか話しづらそうな調子でしたから……てっきり森の外に連れ出して、私を笑いものにして楽しむ気かと」


「……貴様オレのことをなんだと思ってるんだ?」 

「私を憎んでいる復讐者です」


 断言すると、ヴァスは口の中で舌を持て余すような、奇妙な動きをしてから黙り込んだ。


「ああ、でも、それはだめですね。あなただって、生きていると知られれば処刑、最低でも投獄されるでしょうもの。ならば……この山のどこかに伏兵を置いていて、今度は逆に私を……」

「せんわ! 禁足地の山中にぞろぞろ兵を連れて来られるような権力は、もうオレには残っていない!!」


 妄想もいい加減にしろ、と叱られてしまった。最悪の予想は当たらなかったようでほっとしたが、ではヴァスは、一体どこへ何をしに行く気なのだろう。


「ヴァス。そろそろ、目的地を教えてもらえませんか?」

「……行けば分かる。分かる、はずだ」


 道なき山中を迷いなく先導していきながら、ヴァスはそれだけ答えてくれた。

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