フォーレのシシリエンヌ(5)



「祖国に吹く風を、降る雨を、太陽の光を、またこの手で感じたい・・・」


アフメドも同じ想いであり、墓石に彫られた言葉のように深く胸に刻まれていた。残念ながらサラはもうこの世界にはいなかった。


サラと過ごした時間が消えてしまうことはなく、昨日の出来事のように覚えていることもあった。サラが亡くなってから十五年ほどの月日が流れていた。この国に来てからはさらに長い時間が流れていた。サラとアフメドには共通の過去があり、距離を縮めるきっかけになったかもしれないが、明るい話題ではなかった。


そもそも、アフメドは医者になるつもりはなかったし、医者が大嫌いだった。幼いアフメッドからすれば医者とは、注射を打つという名目のもと、大きな痛みを与えるか、薬という苦い怪しいカプセルを売りつけてお金を稼いでいる人達だった。今はそう考えていはいないが子供の頃は本気でそう思っていた。


当時は気がつかなかったが、病院に行く事ができない友達もいた。結果として医者になり、人の心臓を毎日のように切っていたが、もし幼いアフメドにこんな未来が待っていると伝えても信じることはなかっただろう。アフメドの手術を求めて外国から来る患者もいた。患者だけでなく、技術を学ぶために心臓外科医や、研修医が来ることも少なくなかった。その中には一緒に働きたいと申し出る者もいたが、アフメドが受け入れることは殆どなかった。


患者を救いながら、自分自身が救われていると感じることがあった。全ての患者を救うことは不可能だが、それでも患者を救うことで亡きサラに近づいているような気がした。そしてこの感覚はアフメドにとって重要だった。どんな感覚なのか簡単に言葉にすることはできなかったが、全てを言葉にできると考えるのは傲慢かもしれない。


医者になることは決して楽な道ではなく、多くの時間を費やし、我慢の連続だった。サラはアフメドが医者になるためにそばで見守っていた。特別な何かをしたわけではなかったが、彼女の存在は大きかった。噴水に二人でいる時、お互いの将来について話すのも悪くなかった。十八歳とは、そういう年頃であった。


サラはアフメドのように就きたい職業がなかったが、大学に入ることは決めていた。フランス文学に興味があったらしく、サラに勧められていくつかの本読んだが、アフメドにはその面白さがいまいち分からなかった。そして、本を読む時間を惜しんで勉強しなければ医学部に進学することは難しかった。そのためにアフメドはサラと噴水で話す時間以外は机に向かっていた。


サラが思いつきで何か言いだしたり、話題を変えてしまうことにアフメドはすぐに慣れた。それでも「天使を見つけることが出来ると思う?」というサラの問いはアフメドを戸惑わせた。

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