目を覚ましたとき、森谷は自室に床に汗だくで横たわっていた。昨晩パソコンで作業をしているうちに眠り込んでしまったようだ。彼は重たい体を起こし、メガネをかけて壁掛け時計で時刻を確認する。十一時半、土曜日だ。カーテンを開けると、夏の眩しい太陽の光が勢いよく差し込んできた。

 長い夢だった。それにしても、夢の中とはいえ一人の少女の手紙でここまで話を膨らませるとは自分でも驚きだ。森谷はそう思い、机の上に置かれたコースターを何気なく手に取った。

「今週日曜日十五時話がしたいです」

 まさか、夢の内容のようなことが起こるはずはあるまい。

 しかし、では彼女は何を伝えたくて森谷との話を望んでいるのだろうか。

 突然、ぐるぐる、という音が聞こえた。森谷は空腹だったのだ。

(そういえば夜から何も食べていなかった。久しぶりに外食でもしたいな)

 彼は手に持っていたコースターを裏返した。――『こきはなだ』は家から近いようだし、ちょっとした腹ごしらえにはいいかもしれないな――そう思い、

 彼は軽い気持ちで検索エンジンに店名を入れたが、出てきたグルメ紹介サイトを見て開いた口が塞がらなくなった。

 青い小物で飾られたカウンターの写真、「鮮やかな青いソーダと白いソフトクリームの爽やかな組み合わせ。当店名物のクリームブルーソーダをぜひお召し上がりください!」という紹介文。

「夢とそっくりじゃないか……」

 まさか、写真には写っていない部分の内装や、他のメニューも夢と同じなのだろうか。実際に行って確かめたい。そんな衝動に駆られた森谷は素早く着替えて家を飛び出した。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けた瞬間、森谷は驚きのあまり倒れそうになった。『こきはなだ』は夢で出てきた景色とまったく同じだったのだ。青と白の陶磁器、海のようなグラス、その他にも確かに見たことのある小物がずらりと並んでいる。レジに近い席に座っている老夫婦のもとには瑠璃色の羊羹が置かれていた。

「あのお兄さん、なんだかわたしたちの方を見てびっくりしておるよ」「どうしたんかねえ」と、彼らに囁かれているのにも気づかず、森谷は目を丸くしてその場に立ちつくしていた。

 そのとき、カラコロ、というベルの音とともに風が吹き抜けていった。森谷が振り返った先には、夢の中で何度も顔を見たあの少女が立っていた。少女は森谷を見ると、彼と同じように目を見開いて固まった。

「先生!」

「タツナミさん……!」

 互いの言葉を聞いた瞬間、二人は驚嘆の悲鳴を隠せなかった。

「うそ、先生、あたしのことがわかるんですか。あたしは夢の中でここに来て、それで――」

「ええっ、きみもかい?」

 ウェイトレスが怪訝な顔をしてこちらを見つめている。

「二名様でよろしいでしょうか」

「えっと……ああ!はい、すみません……」

 

二人が案内されたのは、木製の椅子と机が置かれた窓際の席だった。

「夢と違いますね。あたしたち、あそこに座っていたでしょう」

 未海が指さした先には見覚えのある紺色のソファー、ペルシア絨毯のようなテーブルクロス、青空を描いた油絵があった。

「そうだね。……タツナミさん、あれを見てよ」

 窓からは、夢の中で二人が走り回った工場、最後に崩れながら落ちていった港が見える。

「あのときは大変でしたね。あたし、今でもあの痛みをはっきりと思い出せます。もちろん、夢と違ってほんとうの人間だからもうあんなことにはならないけれど」

 未海はそう言って、夢の内容を噛みしめるように胸に手を当てた。森谷はその様子を穏やかに見つめ、こう切り出した。

「きみは夢の中で、本当に身体の中に海があると言っていたし、ぼくは確かにきみが青い水になって消えていくところを見たよ。でも、それは夢の中の話だろう。君はあの句を考えたとき、どんな気持ちだったんだい」

 未海は少し考え込んでから、

「あたしはただ、感情の例えではなくて頭に浮かんできた――ちょうど、あたしたちが見た夢と同じような――イメージを言葉にしただけだったから、申し訳ないけれど、モリヤ先生の評に違和感があって手紙を送ったんです。愛って言われるのはなんだか違うな、って。でも今となっては、もう分かりません。夢の中でも、今も、こうやってあたしと先生を引き合わせてくれたのはあの句だし、何か深い意味が隠れているのか、あたしが気づかないうちに自分で隠したのかどうかも、何も」

 と、言った。

 森谷は静かにうなずきながら未海の話を聞いた。彼女は続けて、

「今は、愛情っていう解釈もとても素敵に思えます」

 と言い、切なげなほほえみを浮かべて、テーブルの端のブルースターに目をやった。夢の中で見たものとは違って少ししおれており、曲がった茎はうつむいた元気のない人間を思わせる。

森谷は彼女が何を考えているのか、なんとなく想像がついた。

「まだ、早すぎますよね」

 森谷はどう答えていいのか分からなかった。ただ、目頭が熱くなっていく感覚を覚えながら黙っているばかりだった。

「夢だって、分かっているんです。でも、歩けなくなったあたしを抱えてくれたときのあたたかい体温とか、最後に短歌を読み上げてくれたやさしい声だとか、他にもたくさんのこと、忘れることなんかできません」

 未海の声は震えていた。彼女はぎこちなく目を伏せてほほえむ。

「ブルースターの花言葉ってご存じですか。あたしのように馬鹿な人のことを指す言葉です。実際に顔を合わせたのは今日が初めてだし、第一、あたしはまだ、先生に釣り合わない子どもです。どう考えても早すぎる、けれど……」

 そこまで続けたところで、未海は唇を嚙み、手をぐっと握りしめた。彼女の瞳はやさしく潤み、ランプの光を映しこんでなめらかな輝きを帯びていた。

森谷はそんな彼女を前にして、あふれそうになる言葉を飲み込み、こう語りかけた。

「ぼくだって、夢で見たきみのことを鮮明に覚えているよ。同じ夢を見て、こうやって同じ場所で向き合っているのは、きっと何かの縁があるということじゃないのかな」

 森谷は財布から千円札を取り出し、そっと未海の前に置いた。そして、椅子から立ち上がると、彼女に背を向けて歩き出した。

「先生」

「これできみの好きなもの、そうだな――クリームブルーソーダなんかを―― 飲みなさい。余ったお金も返さなくていい」

「待って、せんせい」

「きみは発想力が豊かで繊細な感性をもっている、だから……これからもどうか作品を作り続けてくれないか。ぼくの狭い歌壇じゃなくて、もっと広いところへ。ぼくはずっと、きみのことを応援しているよ」

 森谷は振り返り、にっこりと未海に笑いかけた。彼は、未海の驚きのあまりに見開かれた目、行き場のない想いを抱えて半開きになったままの口を見つめた。そして、哀しさを感じてゆがむ顔を隠すようにして歩いて行った。

「せんせい、せんせい、行かないで……」

 未海は華奢な肩を小刻みに震わせて泣き始めた。幾多もの涙が、彼女の赤い頬を伝って落ちていった。視界がぼんやりと霞み、所狭しと並んだ小物たちが

 溶け合ってひとつの青になる。彼女は、深い海に沈められて息もできずに溺れていくような、苦しい絶望感でいっぱいになっていた。

 一年後の夏。未海がもう短歌をどこにも投稿していないことを、森谷は悟っていた。あれから彼のもとに来るハガキの中に、未海の名前を見ることは二度となかったし、他の歌壇も探し回ったが彼女の句は載っていなかった。

月に一度、全国から歌壇宛てに送られたハガキの山に白い封筒が混じる。中にはいつも旬の青い花が入っているのみだったが、今回届いたものは少し異なっていた。中には清々しい水色の小さな花とともに、小さく丸っこい文字の書かれた便箋が入っていた。


 応援しているよ、と先生がおっしゃられたことはほんとうに嬉しいことです。けれど、あたしには、言葉をあやつり美しい響きを生み出すだけの力がないのです。もう何も思いつきません。一年ほど前にあの句を送った頃は、強くはっきりとしたイメージがあったのに。先生のご期待に添えなくて申しわけありません。

 あたしは今、S医院に入院しています。二週間前に、港を散歩しているときに足をすべらせて落っこちてしまいました。両親にはさんざんおこられたし、自分でも馬鹿なことをしたなあとおもうけれど、もしかして港に落ちたままだったら、あのときの夢のように押し寄せる海を抱きながら水色になって溶けてしまえたのかもしれないなんて、考えてしまうのです。けれどあたしには、もうあの痛みを感じることはできないのでしょう。

 今まで庭に咲いている青い花を先生に送ってきたのは、どうしても自分のことを忘れないでほしいという気持ちからです。それもこれで終わりにします。

 何の力も、価値もないあたしのことをずっと先生に覚えていただきたい、なんて傲慢すぎる願いです。

 一緒に入れた花は、病院の花屋で見つけたものです。あのときのことを思い出し、先生にも見ていただきたいという一心で封筒に詰めてしまいました。あたしの最後のわがままだと思って、どうか許していただけませんか。


 文字の間にはにはいくつかの染みがあった。その傍に、水滴がぽたりと落ちて新しい染みを作る。

 森谷は便箋を握りしめてうずくまり、咆哮した。熱い涙が彼の頬を次々と走っていき、床に散らばった鮮やかな水色のブルースターを濡らしていった。

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少女の抱いた海 一碧 @suiten_ippeki

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