階段をすべて登り切り、扉を開けるとまばゆい光が飛び込んできた。

「タツナミさん、海だよ」

 森谷は未海とともに、屋上の端へと近寄った。鉄のフェンス越しに地上を見下ろす。

 海とはいっても、輸送のため人工的に造られたものなので、水の色は暗く、周囲はコンクリートに囲まれていて殺風景である。赤いクレーンがコンテナの積み下ろしを行っている最中であり、その近くではツナギを着た人々が固まって作業に取り掛かっていた。

 森谷の声に反応した未海は首を動かし、その様子をじっと見つめた。彼女が漏らした満足そうな吐息は、森谷を安堵させた。森谷に掴まっていたはずの彼女の腕はもう無くなっている。四肢を失い、全身から水を垂らすトルソーになり果てた彼女を腕の中に抱えながら、森谷は静かに立っていた。

「モリヤ先生」

 未海はわずかに唇を動かしてそう言った。ちらりと見え隠れする口の中は、深海を思わせる濃い青色をしていた。その中で、小さな歯がぽろりと落ち、青黒い舌に真っ白な泡の渦を描いていくのが見える。

 森谷は前髪で隠れた彼女の目をのぞき込んだ。そこには今まであった茶色の瞳の代わりに、アクアマリンのように透き通り、ゆらゆらと揺れる水色の二つの塊があった。

「なんだい」

「海の前で、『さざなみ』の最後のページの句。声に出していただけませんか」

 森谷はほほえみながらそっとうなずき、


 やわらかな青にこの身を溶かしたい恋い焦がれるは未だ見ぬ海


 と、ゆっくりつぶやいた。

 その瞬間、未海の身体が森谷の腕をぐいっと引き込み、大きな青色の渦になった。人の形を失くし、激しくうねる波と化した彼女は森谷を包み、ふわりと空中に浮きあがった。森谷が揺れる水の中で呆然としていると、水色のガラス細工のように透明な未海がふっと現れた。

「ありがとう、先生……」

 森谷は差し出された水色の手を握った。すると、彼は激しい痛みとともに、身体が溶けていくような感覚を覚えた。彼もまた、海のように青い水に姿を変え始めていたのだ。皮膚が薄い水色の膜になり、やがて無数の水滴となって飛び散っていく。骨は透き通る粉になってさらさらと水の中に流れていく。

 その様子を、未海はしっとりと潤んだ瞳で見つめていた。

 やがて、二人は完全に溶け、屋上を満たす水色となった。

 不思議なことに、森谷にはばらばらになった後も意識があった。

(タツナミさん……未海さん。ぼくらはもう『海』になってしまったのかな)

 未だ見ぬ海。その言葉を反芻しながら、森谷は静かに目を閉じた。

 巨大な波が屋上から噴き出し、港を目がけて下降していった。

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