「おつりはいりません。では」

 森谷は一万円札をレジに叩きつけ、うつむいた未海の背中を押しながらドアのもとへ走った。

「お客様、そんなことをおっしゃられても困ります。今お渡ししますので。五千円札が一枚、千円札が一枚、二枚」

「はあ……(そりゃあ、そうだよなあ) 」

 森谷はため息をついた。その横で、白いワンピースに水色の染みが広がるのを見つめながら、未海が顔をゆがめて震えだした。森谷も同じように慌ててがたがたと地団駄を踏み始める。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 いくらかの紙幣と硬貨を受け取った森谷は未海の腕を引いて、勢いよく店を飛び出した。ガチャン、というドアの音とともに、取り付けられたベルがカラコロと鳴り響いて、あわただしく出ていく二人を見送る。

「身体が水色になって溶けている……いったいどうなってるんだ」

「なぜかはあたしにもわかりません、でも、こういうことは昔から何回もあって」

「そんな……どうしたらいい、どうしたら治る」

「ええと、ええと、涼しい場所に行けば……今まではそうすれば元に戻ったから」


 二人は狭い路地をしばらく進み、奥の建物の陰へと走りこんだ。

「ここ、どこかしら……」

 傍に立つ鉄柱は錆びており、辺りのコンクリートはところどころ汚れている。アスファルトに引かれた白線に沿って、黄ばんだトラックがぽつぽつと並んでいる。その奥にはコーンや土嚢袋などが積み上げられた山が見える。

「何かの工場だろう。日曜日だから人はいないみたいだね。とりあえず、ここの屋根の下でいったん休もう。ぼくは冷たい飲み物を買ってくるよ」

 森谷は工場の向かいにある自動販売機へと急いだ。ミネラルウォーターを買い、未海のもとに行くと彼女は「ありがとうございます」と礼を告げ、力のない笑顔を浮かべた。

「大丈夫かい」

 森谷は未海に持っていたペットボトルを渡した。未海は額の水色を拭った後、ボトルのふたを開けミネラルウォーターをぐいっと喉に流し込み、ため息をついた。

「ええ、なんとか。『こきはなだ』は良いところだけどクーラーがときどき効いていなくて。煉瓦だから風通しがあまり良くないのかも。ここなら人目もないし、日陰で涼しいからいいですね」

「もしかして、これがきみの言う『海』なのか?」

 未海はうなずいた。

「身体が内側から壊れて、今みたいに水色の液になってこぼれてくるんです。そしてあの句に書いた通り、ちょっと痛い」

 未海は頬に付いた水色の跡を指でなぞってぎこちなくほほえむ。「ここがずきずきします」

「先生の作品で、海の青色に溶けたい、っていうものがあるじゃないですか。だから、なんとなく先生になら分かってもらえる、ううん、ただあたしが話したかっただけなのかもしれない。でも、まさか、本当に『海』をお見せするこ

 とになってしまうなんて」

「不思議なことがあるものなんだね。きみは人間じゃないんだろうか。その……人間界に遊びに来た海の妖精だとか」

「ふふ、あはは。かわいらしい例えですね。あたしは妖精なんてきれいなものじゃないですよ。海から来たわけでもないし」

 森谷は真剣に言ったつもりだったので、未海のおどけたような態度に面食らい、黙り込んでしまった。

「でも、人間じゃないのはたぶんほんとう。自分が何であるのかは、あたしにも全然分からないけれど」

 未海が少し暗い声色でそう付け加えた。

 森谷は、目の前で起こった光景をまだ完全に受け入れることができていない。

 しかし、彼の中でこの変わった少女に対する強い好奇心が生まれ始めていた。

「きみにとっては災難だと思うけど、ぼくはきみの『海』のこと――」

「きゃあ、あ、足が……!」

 森谷の言葉は未海の悲鳴によって遮られた。

「もう治らないかもしれない、先生……」

 走る森谷に抱えられた未海の足を包むように波が現れ、アスファルトにぽたぽたと水色の跡を残していく。

「まだ分からないだろ、そんなことを言うなよ!もっと涼しいところに行こう、ほら、あそこに建物がある」

「ちがうんです、ちがうの。きっと温度の問題じゃないんだわ」

 森谷は工場の敷地内を駆け抜け、古びたパイプとタンクに囲まれた、黒ずんだ背の高い建物へ入った。送風機のモーター音が響き、ひんやりとした冷気が二人分の身体をなでていく。

「どうだ……?」

 未海のうなじの皮膚がきらめいて鱗のように剥がれ落ち、中から青みがかった水があふれ出す。むき出しになった骨はしゅわりと音を立てて泡に姿を変える。青と白、二つの色が絡み合ってうねり、床を覆いつくしていく。

 抱えられていた未海が森谷の背中に爪を立てて泣き叫んだ。「いたい、いたい、いたい……!」

 必死で溶けていく未海の器官を掴んでも、手を開いた瞬間には青い水に変わってしまう。崩れていく彼女を留めることはできなかった。

 もう何も手段などない。このままもう未海は消えてしまうんだろう。森谷はそう思い、背中にしがみついてひたすら青い水と「いたい」という単語をこぼすに、そっと尋ねた。

「タツナミさん、ぼくはどうしたらいいかな」

 未海は弱々しい声で、

「本当の海が見たいです。港が近くにあるでしょう。この建物、背が高いから

 屋上だったら見えるはず」

 と、言うとぐったりと頭を垂れた。

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