第3話 未狂の視点
上原未狂は今日、女としての尊厳を汚される。
あの時の私は本当にそう思った。
今思い出しても震えが止まらないあの事件。
事の発端は担任の先生である上崎先生との面談だった。
「放課後……ですか?」
上原未狂は首を傾げた。
今日の放課後は部活があるが急用ならば多少遅れても問題はないだろう。
だが急に呼び出される心当たりがなかった。
「そうそう、入学したばかりの一年生にはこの時期面談をする決まりなんだ」
未狂に対してそう答えたのは上崎太志。
上崎は未狂のクラスの担任であると同時にこの学園一の嫌われ者であった。
理由は二つあり、一つ目は見た目だ。
上崎の見た目はお世辞にもいいとは言えず、 肥え太った体、薄くなった髪の毛、常に汗と油を身に纏っており、思春期の女子たちにとっては生理的嫌悪感を抱くものがあった。
そしてもう一つの理由は体臭だ。
上崎は腐卵臭のような体臭をしており、あまりにも酷い匂いに生徒間では上崎を中心とした半径1m圏内に入らないことは暗黙のルールになっていた。
また、体臭と同様に口臭もとても酷く、上崎の授業を一番前で聞いる生徒は常に鼻を手で覆っているかその授業だけ欠席していた。
ただ女子には上二つの理由以上に上崎を嫌悪する理由があった。
それは行動や言動だった。
女生徒に対して事あるごとにボディタッチをしたり、授業中も授業外でも常に女子及び若い女性職員を見ていたりとセクハラとして訴えられてもおかしくないようなことをしていた。
未狂もその例に零れず上崎のことが苦手だができるだけ失礼のないようにと匂いを我慢しながらも普通に接していた。
故に目をつけられてしまった。
「面談……」
「面談といっても、5分くらいで終わるような簡単なものだよ。友達はできたか、とか学校生活で困ったことはないか、とかね」
「5分くらいで終わるんですか?」
「うん、すぐに終わるよ」
「じゃあ……」
特に断る理由のなかった未狂はそれに応じてしまった。
「よかった!じゃあ放課後HRが終わったら図書室に来てね」
「図書室ですか?でも図書室は……」
「大丈夫、今日は僕が当番だからある程度融通が利くんだよ。それに放課後の図書室には誰もこないから」
上崎が笑みを深めた気がしたが特に気にすることなく未狂は頷てしまった。
図書室の周りは教室とは違い、とても静かでまるでこの学校に自分一人しかいないかのような錯覚を引き起こした。
夕日が織りなす光景にノスタルジックを感じつつ未狂は歩いた。
(ここら辺、初めて来たなぁ……図書室はこっちだっけ?)
この学校では珍しい開き戸が見えた。
図書室だ。
未狂はドアを開けた。
「先生?」
返事はない。
上崎がまだ来ていないのかと思ったがよく見ると学習スペースの奥の方にいるのがわかった。
なぜわざわざわかりにくい場所で待っているのだろうと思いながらも上崎の方に近付いて行く。
「先生、すみません。お待たせしました」
未狂がそういうと上崎は振り返り、こう言った。
「あ、未狂ちゃん、よく来たね」
笑みを浮かべながらそう言う上崎先生。
だがこの時の未狂は気が付いていなかった。
この人の笑みに含まれた悪意を。
そして悪意の裏に隠される醜い欲望を。
「じゃあ、こっちに座って」
上崎に促されるまま、隣の席に座った。
「じゃあさっそく始めるけどいいかな?」
「はい、大丈夫です」
未狂はすぐに頷いた。
正直、未狂は面談など早く終わらせてしまいたかった。
担任である先生に対してこんなこと思うのは不適切だということはわかっている。
しかし苦手だという事実は揺らがない。
未狂が意識しても上崎の汚すぎる見た目は変わらないし、臭すぎる体臭は変わらない。
理性ではなく、本能が上崎という存在を嫌悪しているのだ。
今の未狂には鼻を覆い隠さず、目を見て話すことだけで精一杯だった。
それもずっと続ければ、体調に支障が出てしまうだろう。
「まずは、そうだね交友関係から聞いていこうかな。どう?入学して一ヶ月経ったけどクラスの皆とは仲良くやれているかな?」
上崎がまず聞いて来たのは交友関係についてだった。
「ハイ、皆にはとてもよくしてもらっています」
手短に答えた。
嘘は言っていない。
あまり話さない子もクラスの中にはいるが別に仲が悪いというわけではない。
それに仲の良い子もちゃんといる。
「そっか。それは良かった」
上崎はそういうと黄色い歯を見せながら笑った。
その瞬間、上崎先生の口から漏れ出した口臭に未狂は思わず手で口を押さえてしまった。
あまりの臭いに吐きそうになったのである。
(先生…笑うと喋ってる時よりも口臭が酷い……)
「ん?どうかしたの?」
元凶である上崎は特に気付く様子もなく、尋ねてきた。
どの口が言っているんだとらしくない悪態を内心でつくがこれはしょうがないことなのだと無理矢理納得して上崎に向き直る。
早く終わらせないとこの地獄のような空間から脱出出来ないからだ。
「い、いえ…なんでもありません。続けましょう」
「じゃあ次だね。次はそうだね__まずはこれを見てもらおうかな」
そういうと上崎先生はポケットからスマホを取り出し、画面を見せてきた。
「は、はい__え……ちょ、ちょっと待って下さい。これって…」
そこに写っていたのは未狂の家の外観が写った写真だった。
何故先生が私の家の写真を?
そもそも見せてきた意図は?
頭の中にいくつもの疑問が生まれるが答え合わせなど出来るはずもなく、ただ困惑した。
「未狂ちゃん、つい最近まで自分の鍵失くしてたでしょ?」
「え、はい」
上崎からの突然の問いかけ、未狂は反射的に答えた。
確かに上崎のいう通り未狂はつい最近まで上崎に鍵を届けてもらうまでの数日間手元に鍵がない状態だった。
「違うよ未狂ちゃん。失くしたんじゃない。盗られたんだよ君の鍵は」
「え?」
粘着質な声が頭にこびりつく。
この男の言ってることが理解出来なかった。
「未狂ちゃんが鍵を失くした日、体育があったでしょ?」
ニヤニヤした顔で得意気に話す上崎に未狂は絶句した。
理解できなかった。
いや理解したくなかった。
もし理解してしまったなら最後、もう後には退けなくなりそうだから。
「……」
「その日、僕が女子更衣室に忍び込んで君のブレザーから鍵を盗んだんだよ。イヤー大変だったなぁ」
まるで武勇伝を語るかのように言い聞かせるその姿ははっきり言って気持ちが悪かった。
その恍惚とした姿もそして言い聞かせる内容も。
先生は…いや、この男は一体何を言ってるんだろうか。
更衣室に忍び込んだのか、この男は。
いや、違う。それも無視できない事実だが今一番気にすべきことはそこじゃない。
「な、なんで…」
そう、何故か。
女子更衣室に忍び込んだ結果、偶々未狂の家の鍵を見つけ、それを盗んだのだろうか?
否、この男の発言から考えるに最初から未狂の家の鍵目当てだったみたいだ。
だがなぜ自分の家の鍵をわざわざ狙ったのか、わからなかった。
「こういう写真を撮るためだよー」
ニヤニヤしながらスマホの画面をスライドし始めた。
見せつけるかのように向けられたスマホの画面に次々と写真が映されていく。
「な、それ……私の……」
お風呂に入っている時の写真、トイレに行っている時の写真、脱衣所で着替えてる写真。
他人には見られたくないところを写真に収められていた。
一枚や二枚ではない、何枚も何枚もだ。
写真だけではなく動画も撮られていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。
「あ……ママ…」
そこには未狂の母親の写真まであった。
「いい写真だよね。未狂ちゃんのお母さん、確か名前は朱美だったかな?とっても美人だよね」
子供一人産んだとは思えないほど綺麗な体してるよ、その発言を聞いた未狂は自分の中でなにかが切れる音がした。
「ふ、ふざけないで下さい!!ママの写真、今すぐ消して!」
未狂は上崎に詰め寄ったが、余裕そうな表情は崩さなかった。
「未狂ちゃんは心が綺麗だね。最初に出た言葉がお母さんの写真を消してなんてさ。本当に未狂ちゃんは僕好みの女の子だよ。__穢したくなる」
急に変化した上崎の雰囲気に後退った。
上崎の瞳が濁っているような気がした。
近づくなと本能が警告してくる。
逃げろと身体が訴えてくる。
未狂は怖くなって逃げようとした。
「逃げてもいいよ。でもそうなったらこの写真を学校中にばら撒くけどね」
動かそうと思っていた足に待ったをかけた。
あの写真をばら撒く?そんなこと…
「やめて、やめて下さい…それだけは!」
その台詞を聞いた瞬間、上崎は今までのニヤニヤした笑みとは比べ物にならないほど口角を上げた。
「ばら撒いて欲しくない?」
「あ、当たり前じゃないですか…!」
自分の裸など他人に見られたくないに決まっている。
そんなこと想像しただけでとても耐えられなかった。
「ケヒッ、キヒヒヒ…そっか。そっか」
不気味な笑い声を上げた。
上崎が立ち上がった。
未狂は足を動かそうとしたが動かなかった。
後ろに下がりたいのに下がれず、それと対照的には距離を詰めてくる。
「キャッ!?」
肩を押され、椅子に座らせられた。
肩を押さえつけながら上崎は静かにこう言った。
「だったら僕の言うこと、聞いてよ」
その言葉を聞いた瞬間、鼓動が早くなり始めた。
普段は感じない心臓の動きを強制的に意識させられる。
「な、にがのぞ__」
「ケヒッ、これだよ!!」
制服に手を掛け、脱がし始めた。
「イヤ…やめて!!」
未狂は必死に抵抗するが服は脱がされていき、下着が露わになってしまった。
運動不足とはいえ、ウェイトが違いすぎた上崎と未狂の力比べなど一目瞭然だ。
「誰かたすけ__ムグッ!?」
口を押さえつけられた。
上崎は未狂の耳に口を近づけるとこう言った。
「黙らないとばら撒くよ?」
冷や水をかけられたかのような気分だった。
忘れていた。
上原未狂はこの上崎という男から逃げる術はないのだ。
もしも逃げれば自分の…それだけじゃない。母の写真までばら撒かれてしまう。
「ケヒッ、ヒヒヒヒ…ようやく自分の立場がわかった?」
大人しくなった未狂を見ながら上崎というは満足そうに笑った。
未狂は吐きそうになった。
そして逃げたくなった。
「じゃあ…そろそろご開帳といこうかな」
でも出来なかった。
目の前で膝をつき、自分のパンツを凝視する変態の写真がそれを赦さなかった。
上崎はパンツに手をかけ、脱がしてきた。
「ハァ、ハァ…もう我慢出来ない……もういいよね?」
「お願い、やめて……」
未狂は懇願した。
だが、上崎はその懇願にすら興奮した様子だった。
股から視線を動かすこともなく、返事もなかった。
上崎はゆっくりと顔を…イヤ、口を近づけてくる。
未狂は涙を流しながら目を背けた。
「えへ、えへへ……げ、現役JKの生マ〇コいただき__」
未狂が諦めた、その時だ。
「おい」
その日運命に出会った。
声の元を見ると先程まで誰もいなかった本棚のそばに1人の男子生徒が立っていた。
「へぁ?」
上崎もこれには驚いたのか、未狂のモノから目を離して振り返った。
未狂は咄嗟に自分のスカートで隠すと密かに助かったのだと安堵した。
小麦色の肌と一点の曇りもない漆黒の髪色、鋭い目つきとは対照的な甘いマスク。
ズボンのみ制服だが後は私服という出立ち、間違いない。
(__漣、蓮…)
漣蓮。
私の通っている学校の生徒なら誰でも知っている人物だ。
二言で表すなら『問題児、しかし優秀』
進学校では珍しい不良だが成績優秀で授業態度は悪くないというよくわからない人物だ。
成績優秀だが暴力事件を多々引き起こしており、例外なく全員病院送りになるか、不登校になる。
彼とトラブルを起こして翌日学校にいた人物は誰一人いないことから疫病神というあだ名がつけられている。
(でもなんで彼がここに…?)
彼がなぜこんなところにいるのか、なによりもこの状況で彼はどう動くのか、検討も付かなかった。
(もしかしたら…)
男から助けてくれるかもしれない。だがそれ以上に襲われるかもしれない…
(あぁ…私、どうしたら…)
そんなことを考えていると件の不良__漣蓮が男を押し退けて私に近づいてきた。
そして目が合う。
私はその鋭い目つきに怖くなった。
そんな私の様子など気にした様子もなく彼は自分の着ていたワイシャツを脱ぎ始めた。
この状況で行われることなんて1つしか考えられない。
あぁ、この人も上崎先生と同じなんだと思った。
だが上崎先生に私のハジメテ奪われるくらいならこの人の方がマシだとも思った。
しかし予想に反して彼は脱いだワイシャツを私に掛けただけで何もしてこなかった。
なんで何もしてこなかったんだろうか、そもそもなぜ私にワイシャツを……
そんな心の声が聞こえたのか、彼は応えた。
「今のお前の格好は正直目のやり場に困る。俺の着てたヤツだから気持ち悪く感じるかも知れねぇけど我慢してくれ」
「あ……!」
そこでようやく自分の格好が際どいことに気がついた。
(あ、あ…私今、パンツも履いて……__)
あまりの羞恥に下を向くしかなかった。
まさか喋ったことのない人に自分の恥ずかしいところを見られるなど思いもしなかった。
「き、君は!?」
男が突然声をあげた。
「あ?」
彼は言葉に怒りを含ませながら男の方を振り返った。
「君は何をしたのかわかっているのか!?僕はこの学園の教師だぞ!それに対してその口の聞き方、ましてやさっきのは暴力じゃないか!!」
汗を撒き散らしながら怒鳴り声を上げている。
私は再び恐怖に襲われたが先程よりも心に余裕があった。
そのせいか、男の発言に違和感を覚えてしまう。
(暴力ってまさかさっき彼が押し退けたこと…?)
あれは暴力じゃないと思う。
少なくとも私には男子生徒が教師の肩を掴んで退かしただけに見えた。
「暴力?何言ってんだ?」
彼は本心から何を言っているかわからないといった様子で問う。
しかしそれも仕方のないことだ。
男の発言はあまりにも暴論が過ぎる。
「フヒッ、退学だ、退学だ!!お前はもう__」
「うるせぇよ」
「オゴ!?」
(え!?)
彼は男の顔面を殴り抜いた。
その光景に私は微かな高揚感を覚えた。
さっきまで自分を追い詰めていた男が倒れる姿にそう思ってしまった。
人が殴られているというのにこんなことを思う自分に嫌悪感を抱かないでもないが状況と相手が相手だったので仕方ないと割り切った。
「みっともなく喚きやがって……」
冷たい目つきでそう言い捨てた。
「悪かったな、怖がらせちまって」
私の眼を見ながらそう言う彼に、私はどこか寂しさを感じた。
抑揚はなく、常に平坦なその声に含まれているのは優しさだけではないような気がした。
彼は少し、ほんの少しだけ口角を上げると私の頭に手を置いた。
(え?)
そして優しく撫で始めた。
「あ」
(パパ……?)
彼の手つきは幼い頃に亡くした父が撫でてくれた時のものに似てた。
撫でるという簡単な動作なのにそれだけで幸福感に満たされるこの感覚、懐かしい。
「安心しろ。あの男には指一本触れさせやしねぇし、俺もお前には手を出さねぇ」
顔を上げる。
「大丈夫だ」
出会ってから一度も崩れない仏頂面。
でもどこか暖かさの含まれる彼の顔。
それを見た私は今まで強張っていた筋肉から力が抜けていくのを感じた 。
今思えば、きっと安心したんだと思う。
この人は大丈夫だ、この人は助けてくれる。
冷静な思考が出来ない頭でもそうわかった。
だからだろうか。
(あ、あれ?)
目の前が歪んでいく。
それと同時に頬を温い液体が伝うのがわかった。
(わたし……泣いて…)
泣いていると自覚した瞬間、塞き止めていたものが溢れてしまった。
声は出さないように唇を噛み、でもどんなに我慢しようとしても涙だけは勝手に出てきてしまう。
私はそれが恥ずかしくて、思わず彼の貸してくれたワイシャツに顔を埋めてしまった。
「……」
後から聞いた話だが黒の虎が描かれたこのワンポイントシャツは妹から貰った誕生日プレゼントでお気に入りのシャツの1つらしい。
それを当時初対面だった私に汚されたのだ、本来なら文句だって言いたかっただろう。
でも彼はそんなこと一言も言わなかった。
それどころか彼は私の背中を静かに摩ってくれた。
まるで壊れ物を扱うかのような慎重な手付きは私の心を落ち着かせてくれた。
それからしばらくして私が落ち着いてきた頃、彼が私の眼を見ていることに気が付いた。
私は今まで泣いている姿をこの人に見られていたんだと再確認すると唐突に恥ずかしくなってきた。
「怖がらないでくれ。さっき言った通り俺はアンタに危害を加えるつもりはねぇ。ただ、少し話を聞きたいんだ」
別に怖がってはない……恥ずかしかったけど。
「え、あ、わたし……に?」
「あぁ、まずさっきあの臭い男が言ってたこと、あれは本当か?」
さっきあの臭い男が言っていたこと……恐らく私に迫られて仕方なく__って言っていたことだろうか。
勿論そんなこと言ってない。
だがここで否定してしまえばあの男が写真をばら撒く可能性もある。
私はそんなこと言っていないと言いたい、でも言ったら写真をばら撒かれるかもしれない。
「それ、は__」
そのジレンマに思わず言い淀んだ。
その時__
「ほ、本当だよね!未狂ちゃん!!」
先程まで伸びていた男が起きてきた。
「ヒッ」
落ち着いていた私の心は再び波を立ててしまった。鼓動の動きが速くなり、呼吸も上手く出来なくなっていく。
男の起こすアクションの一つ一つが私の心に波紋を作る。
彼のおかげで多少マシになったとはいえあの男は未だ恐怖の対象だ。
「大丈夫だから」
そんな私の様子に気がついてくれたのか彼はまた背を撫でてくれた。
顔を上げて彼の顔を見るとそこには少しだけ口角の上がった表情があった。
(笑って……?)
私は、勝手に彼は__漣蓮は笑わない人間なんだと思っていた。
彼と出会ってからほんの数十分だがその時から無表情を貫いていた。
変化があったとしても眉が眉間に少し寄っていたくらいだ。
でも違った。
それは間違いだった。
彼はちゃんと心のある人間だ。
口には出してないが彼だって感じているはずだ。
私が彼に向けていた不安や恐怖といった感情を。
「あ、う……」
情けなかった。
恩人に対して失礼な態度を取っている自分が。
伝えなくちゃいけないことを伝えられない勇気のなさが。
「未狂ちゃん!その男に言ってあげてよ!!君が僕に__」
私の眼を見ながらそう言ってきた。
話を合わせろ、合わせないなら写真をばら撒くぞ、と目で訴えかけてきた。
それに対してアクションを起こしたのは私ではなく、彼だった。
「ハァ…黙れ」
「フゴッ!」
彼はいつの間にか男の胸に足をおいて地面に押し付けていた。
(え、さっきまで私の前にいたのに)
早かった。早すぎて、目にも写らなかった。
「い、いきなりなにを__」
「テメェには聴いてねぇだろうが……そもそも未成年との不純異性交遊は犯罪なんだよ。たとえ互いの合意があったとしてもな」
「な、なな……」
「次俺とこの子との会話に割り込んできたら……殺すぞ」
「ヒィッ」
「おい、未狂……であってるよな?」
「は、はぃ……」
今、私の名前を……
「じゃあ未狂、改めて聞くが……この豚が言ってることは本当か?」
嘘だ。
だがやはり言えない。
「それは……」
「未狂」
言い淀んだ私に呆れた様子は見せず、無表情だがあくまでも優しく対応してくれた。
「安心しろ。この豚に手は出させねぇ」
「で、でも__」
「もしかして脅されてんのか?」
確信を孕んだ声色だった。
彼にそう言い当てられた私は思わず肩を揺らしてしまった。
「ケヒッ」
その時だ。
今まで沈黙を貫いていた男が突然笑い始めた。
「ケヒッ、ケッヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
狂ったかのように笑う男を見て私は恐怖ではなく困惑を覚えた。
「チッ!」
「……あ」
その場から動かずにいた私の手を取って彼は男から距離を取った。
いきなり手を繋がれた私は思わずその手を凝視した。
私よりも一回りほど大きな手だ。
その手は私から拘束を外すのは無理だと思えるほどには強く、でも痛みを感じない程度には弱く私の手を握っていた。
「僕にこんなことして、いいのかな?未狂ちゃん……あの動画、拡散しちゃうよ?」
緩慢とした動きでスマホの画面を写し始めた。
「そ、それは……、それだけは!」
慌てた様子の私を見た男は喜色を孕んだ笑みを浮かべた。
「アッハ、そうだよね。それしかないよね!僕の言うこと聞くしか__ボギャッ!?」
「ごちゃごちゃうるせぇ」
彼は無表情にそう言うと男を殴り飛ばし、持っていた携帯を奪った。
……先程からずっと思っていたが攻撃するまでの動きが全く捉えられないのはなぜだろうか。
これでも私は運動は得意な方なのだ。
動体視力にだって自信があった。
でもその自信を悉く打ち砕いてくる。
「……なんでこういう性欲に支配されたヤツらは脳ミソ詰まってねぇんだろうな」
そっと溜息を吐くと彼は奪ったスマホを操作し始めた。
(私の写真見られてないよね…?)
そんなことを考えるがそんな私にお構いなく、彼はスマホを操作し続ける。
「な、なにしてるんだ!?」
それを見た男は慌てて掴み掛かるが__
「邪魔だ」
__案の定やられてしまう。
苦悶の声を上げて蹲るその姿に若干の同情を覚えてしまった。
「ほれ、返すぜ」
操作を終えたらしい彼は男にスマホを投げた。
男は受け取ると急いだ様子でスマホを確認し始める。
殴り蹴られて真っ赤になった彼の顔はスマホの確認を始めてから徐々にその顔を青くしていった。
「__ない、ないないないないない!写真どころか、バックアップデータまで…お前なにしたんだ!?」
(え?)
データがない?じゃああの写真や動画はもうない?
もう脅されもしない…解放され、た?
「喚くな。汚ねぇ。外見も内面も全てが薄汚れたゴミが」
私の安堵を他所に彼は心底軽蔑し切った声を静かに吐き捨てていた。
「ック……こ、このガキ!!」
激昂した男はポケットに手を突っ込んだ。
そしてそこから取り出されたのはナイフ。
かなり大きめのポケットナイフだった。
「ぼ、僕の計画を…邪魔しやがって!!」
ナイフを振り回しながら彼にそう言った。
八つ当たりも甚しいが今の様子ではマトモに思考回路が機能していないのだろう。
「うるせぇよ、てめェがどんな欲望持っていようと別に構わねぇ……でもそれで誰かを傷つけるんじゃねぇ!!!」
「う、うわあああああ!!!」
彼の不良らしからぬ正論がトリガーになったのか、男はナイフを持って突進した。
「シネーーーーェ!!」
それに対して彼はポケットに手を突っ込んだまま棒立ちしていた。
(え、え!?なにしてるの!?相手はナイフを__)
あまりに無防備な体勢に心配したが__
「はぐッ!?!?」
__どうやら杞憂だったようだ。
男のナイフが届く前に彼の蹴りが顎を捉えていた。
それだけではない。
彼は蹴り上げて宙に浮かんでいた男に更に一発蹴りを入れた。
「ふぎゃあああ!?」
蹴り飛ばされた先には本棚があり、そこに思い切り身体を打ち付けていた。
(う、わぁ…)
あまりのオーバーキルに私は少し引いた。
「ッたく、自習って気分じゃなくなっちまった。いくぞ」
彼は私の手を取るとそのまま図書室から出ようとした。
「え、ちょ、ま、まって!」
慌てて止める。
ここからは早く出たかったが今の私の格好は露出が多く、とても人前に出れるようなものではなかった。
「わかってる。お前の格好だろ?安心しろ。今から行くのは保健室だ。そこで服を用意する」
だが彼はそれを承知だったようだ。
「でも上崎先生は……?」
「上崎?」
彼は首を傾げていた。
私は静かに男の方を指で指した。
「あいつのことか?放っておけ。加減はしたから大した怪我じゃない。それに今はお前の格好をどうにかするべきだろ」
加減してあれなのだろうか、やはり不良は怖い。
しかしあの男からされた所業やされそうになったことを考えると妥当かと考えてしまう自分もいた。
(ハッ!違う!そんなこと考えてる場合じゃない!!)
要らない思考に邪魔されて機会を逃すところだった。
果たすべきことを果たしてしまおう。
「あ、あの!」
「なんだ?」
私は立ち止まった。
手を引いていた彼も必然的に立ち止まる。
指をもじもじ、視線を右往左往させる。
緊張して中々決心がつかなかったがいつまでも待たせるわけにはいかない。
意を決して私は言った。
「本当に、ありがとうございました……!!」
深々と頭を下げる。
私が果たすべきこと、それはお礼だ。
助けてもらったのにお礼を言わないなどありえない。
「__あぁ、どういたしまして」
短く返ってきた。
出会ってからずっと思っていたがこの人の話す言葉にはどうして抑揚が一切ないのだろうか。
でもそれも彼らしいと思ってしまう。
「わ、私、上原未狂と言います。その、良ければお名前をお聞きしてもいいでしょうか……?」
知っている。彼の名前は既に把握していたがそう聞かずにはいられなかった。
「俺は蓮。漣蓮だ」
「さざなみ、れん…」
それはきっと『彼』ではなく、
「では蓮先輩とお呼びしてもいいですか…?」
「…あぁ、別に構わねぇ。好きに呼んでくれ」
アナタのことを蓮先輩と呼びたかったから。
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