第10話 コーディング・エフ
その速度を、トネリコとメリーは目視できなかった。
二重三重四重五重。赤と金。軌跡。
攻撃を打ち合った結果の残像の文字列が、黒い大地と灰色の雲を背景にして折り重なった。
そういう結果が、書き込まれた。
互いに相手を自分の望む結果に定義させる書き込みを、打ち合い打ち消しあった状態が、世界に観測できる結果として残った。
吸血鬼ヴィネガーの瞳は赤い光をほとばしらせて炎のようにゆらめき、治安維持最高戦力ユースティティアの百四十七の視覚センサーと向かい合った。
――まだ、足りない!
ヴィネガーは獣のように吠えて踊り狂った。
美しい自分を取り繕う余裕がない。目の前の敵を倒して、それで終わりというものではない。
多くを望んでいるわけではない。
三人で笑い合えれば、それでいい。
ただその障害が、この世界の治安維持最高戦力であり、この時代のルールそのものだっただけだ。
――だったら、世界を敵に回すだけだ!
二重三重四重五重。六重。七重。
赤と金。ぶつかる。
ヴィネガーは自身の命が燃え上がるのを感じた。
手持ち花火のように苛烈に、瞬間的に。
この時間が過ぎれば、もう一度進化する余力は残らない。
だから、今この時間の中で、決定的に戦い切るしかない。
眼前の敵を越えて、世界秩序の構造そのものを破壊しなければ、トネリコたちと笑い合うことができない。
だから、やる。
そのための道筋を、思考する。シミュレートする。
定義して、押しつける。
二重三重四重五重。六重。七重。八重。九重。
気迫の叫びをひとつ。
軌跡を積む。積み重ねる。大胆な爪の振りかぶり。
織物のように、赤い軌跡が編み上がる。
ユースティティアは飛ぶ。空を走る。金色の残像を強烈に残す。
全身に走る金の文字列が強靭な装甲であり、飛翔と斬撃ごとに空中に残る金の軌跡が、触れれば破壊にいたらしめる凶悪な武器であった。
飛び離れ、詰め寄る。一瞬で軌跡が積み上がる。
世界を自身の色彩で染め上げる。
自身の定義を、押しつける。
そのさなかに、ユースティティアの視覚センサーの一部が地上に向いた。
ヴィネガーは理解し叫んだ。
「いいわトネリコ! それが的確な援護!」
地上、トネリコはメリーを抱いて走る。街へ向けて。
ユースティティアは無視できない。もともと彼女が手紙を届けるのを阻止するのが目的だ。
狙いが分散する。隙ができる。
一歩間違えば戦闘能力のないトネリコがやられかねない危うい隙。
けれど構わない。確信が、世界を定義する。
ユースティティアの十一枚羽がひと打ち。
その一瞬で金色の残像が伸び、トネリコまでの距離が詰まる。
そうなる結果へと書き換える。
今なおヴィネガーより速い。
剣が、振り下ろされる。
街で大規模な爆発。
ユースティティアに直接搭載されたセントラルAIが、状況処理に能力をわずかに取られる。
それで、ヴィネガーが間に合った。
爪の赤い閃光が、ユースティティアの剣に割り込んで振り払った。
走るトネリコの露出した
文字列は蝶のように羽ばたく。
それは特異点となったトネリコの意志を押し上げるように、運命という世界のパラメータを書き換えてゆく。
蝶の羽ばたきが、竜巻を起こす。
二重三重四重五重。六重七重八重九重。十重。十一重。
ヴィネガーとユースティティアは打ち合う。
いまだ戦闘スペックはユースティティアが上。
けれど絶妙なタイミングで街の戦況に動きが起こり、都度セントラルAIの処理能力を割かれる。
その隙に、ヴィネガーの爪が差し込まれる。赤い文字列が、書き換えにかかる。
二重三重四重五重、六重七重八重九重。十重十一重十二重。十三重。
トネリコは街の方向を見すえる。
何か、こちらの方に走ってくる。
黒い地面を巻き上げる、砂ぼこり。それと戦闘の爆煙。
旧世代の、燃料式自動車。
トネリコは直感した。
もし違うなら違うで、構わない。ユースティティアの気を引くだけでも十分だ。
走ってくる車に向けて、トネリコは声を張った。
「手紙を! 届けに来ました!」
ユースティティアの百四十七の視覚センサーが、走りくる自動車を向いた。
セントラルAIが街の戦闘機械に問い合わせる。状況の照会を。
ここに来ているのは手紙の届け先なのか。要警戒対象をみすみす取り逃したのか。
通信を、した。
その致命的な隙に、ヴィネガーの爪が届いた。
赤い刺突と文字列が、ユースティティアの内部にめり込んだ。
ヴィネガーは叫んだ。命を燃やしながら押し込んだ。
目の前の機械、その先を目がけて。
『あたしメリーさん』
その声は、ヴィネガーのすぐそばから聞こえた。
腰にくくりつけた、ウサギのぬいぐるみ。
そこにメリーのカード型通信端末が、引っかけられていた。
『ヴィネガーならやれるって、信じてるの』
青い文字列が後押しして、ヴィネガーの赤い文字列が通信システムに入り込んだ。
セントラルAIに通信する戦闘機械、治安維持システム、そのすべてにヴィネガーの定義が押しつけられた。
書き換える。定義を侵害する。
世界の秩序を、塗り替える。
二重三重四重五重六重七重八重九重、十重十一重十二重十三重、十四重十五重、十六重!
ヴィネガーの十指と六枚の羽が、十六条の赤い軌跡が、十六進数の文字列となって世界秩序のデータを侵食した。
酸素をくべるように命を燃やして、治安機構の行動ルーチンから自由恋愛禁止の項目を反転させる。
満月が欠けていざ
積み上げた塔をへし折るように。
世界の終焉と自由を、ヴィネガーは定義して押しつけた。
赤く輝くヴィネガーの姿を、トネリコは地上からながめた。
その姿は異形で、けれど美しくて、それでもどこかあどけなくて、ただただ不安で自分を認めてほしいだけの子供のような、そんな幼い表情をしていた。
ああ。と、トネリコは嘆息した。
あの顔なのだ。
ヴィネガーの強さでもなく、可憐さでもなく、トネリコはヴィネガーのあの不安さに、寄り添いたいと思ったのだ。
――だって、わたしも、同じだったから。
輝く緑の瞳に、赤い吸血鬼の姿を焼きつけて、その目から一筋、涙がこぼれた。
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