第9話 クリティカル・リライト
時間感覚がずれる。
メリーの胸が
青い文字列が、メリーの心が、存在質量が、散ってゆく。
言うまいと思っていたのだ。
秘めた気持ちを、言って世界に向けて確定させることなどしまいと思っていた。
自分は運命の人ではない。そうなることはできない。
覆しようのないその事実を、口にしなければ誰にも観測されず、その気持ちがないものと同じでいられる。
宙ぶらりんのまま、関係性を変えずに済む。
だから、この気持ちを言葉にすることは、メリーにとって世界の崩壊に等しい。
書き換える。
電子音声データに乗せて、自身の定義を世界に押しつける。
心の一番奥底にしまっていた気持ちを吐き出して、自身の大切なものを外にさらけ出してしまった、メリー個人の世界の崩壊、その事象が
メリーの胸が裂け、青い文字列が乱舞し、メリーの持つ存在エネルギーが爆発的に散らばってゆく。
巻き込む。眼前の治安維持最高戦力。
メリーはヴィネガーの運命の人にはなれない。
けれどヴィネガーの幸せを願うことはできる。
彼女が運命の人と、これからまだ歩めるように願うことは。
自身の存在を犠牲にして。
トネリコ。
自分と同じ、血の通わない存在。
けれど彼女は踏み込めた。ヴィネガーの強さに、弱さに、心に。
分かってしまった。
トネリコは、決定的にメリーと違う。
運命の人である以前に、メリーにはそこまで、踏み込めなかった。
きっとトネリコなら、あのときの自分の立場になったら、八百年の眠りに寄り添えただろう。
きっと、そういう差なのだ。
それができなかった自分が、身を引けばいい。
自身を犠牲に、二人の幸せを願えば、それで――
「ダメです!!」
ゆがんだ時間感覚の中で、トネリコがメリーを抱きしめた。
「メリーさんが死んでも、ヴィネガーさんは悲しみます。
本当にヴィネガーさんの幸せを願うなら、生きて見届けなきゃ、ダメです……!」
メリーはあざ笑った。
どの口が言うのだろう。ここまでメリーが絶望したのは、誰でもないトネリコが、ヴィネガーを完璧に奪い去ったからではないのか。
「そうですよ!!」
トネリコは怒鳴った。
怒っていた。
目に涙が、染み出した。
「ヴィネガーさんを欲しいと思ったんですよ!! わたしは!! ロボットのわたしが!!
ついこないだまで
全否定じゃないですか!! わたしの今までの人生!! わたしが今まで生きてきた理由!!
自分の世界が壊れるくらい苦しく感じてるのは、あなただけじゃないんですよ!!」
物理法則からずれた時間と空間の中で、トネリコの体がきしむ。
擬似皮膚カバーが破れてはがれて、黒い
「自分の世界がひとつ壊れたくらいで何かできるっていうんなら!!
わたしがヴィネガーさんを救えなきゃ、ウソじゃないですかぁっ……!!」
泣く。
涙が、蒸発する。
散らばったメリーの青い文字列が、昆虫の
メリーは見た。
トネリコに染み込んでいった文字列が、変色していく。
緑色に。
トネリコの瞳と同じ色に。
擬似生命ブレインユニット。
技術として一応の確立はしながらも、いまだ修復もコピーもできず人間がコントロールしきれているとはいえない代物。トネリコに搭載された頭脳。
そして世界は呪術質量という存在を、情報量と意志の力の質量化といえるべき産物を科学技術に組み込みながら、自由恋愛を禁止し人々から意志の力を剥奪しようとするいびつな構造を形成していた。
そんな状況で愛に突き動かされるトネリコは、結果として、技術的観点と呪術的観点の双方から、特異点と化していた。
世界が塗り変わるほどに。
トネリコは涙を流しながら、叫んだ。
「ちょっと世界をめちゃくちゃにしてでも!! 三人そろってよかったねって笑い合いたいじゃないですか!!
そうでしょう、ヴィネガーさん……!!」
トネリコの銅色の髪を、細い指がなでた。
「そうね」
トネリコは振り向いた。
ゆがんだ時間感覚の中で、赤い瞳を穏やかに向けて、ヴィネガーは微笑んでいた。
トネリコは願った。
「ヴィネガーさん。約束してください。
邪魔するものを全部ぶち壊して、それで死なずに生き残って、わたしと一緒に笑ってください」
ヴィネガーは笑った。
「ものすごくしんどいけど、そうね。約束するわ。
他ならぬ最愛のあなたの願いなんだから」
そしてヴィネガーは、ちらりとメリーを見た。
メリーは目をそらしかけて、そして思い直して、まっすぐにヴィネガーを見すえた。
ヴィネガーは申し訳なさそうに眉尻を下げて、けれど意志をもって可憐に微笑みを返した。
そしてヴィネガーの唇が、トネリコの涙に口づけた。
ゆがんだ時間感覚が、解放された。
振り下ろしたユースティティアの剣が、鈴でも鳴らしたような華美な音とともに、はじかれた。
金色の残像が、文字列が、散る。
迎え撃ったのは赤い文字列、その奔流。
それに寄り添うように緑色の文字列と、ほんの少し混じる、青い文字列。
ユースティティアの百四十七の視覚センサーが、その存在をとらえた。
赤い文字列が晴れた先。広がるコウモリの翼。
二枚。四枚。六枚。
その存在、吸血鬼、その手足から翼の先端にいたるまで、葉脈のように赤い光が駆け巡る。
両手の爪は刀のように伸びて、文字列が流動的に走り、ちらちらと星がまたたくように不規則に明滅する。
異形。でありながら、その全容は整っていて、美麗。
かたわらに、文字列を足場にして、ロボットの少女と呪いの人形が控える。
異形の吸血鬼は――ヴィネガーは、片手の爪をユースティティアに向けて伸ばし、言った。
「ごきげんよう。申し訳ないけれど、私は今から少しだけ、残酷になるわ」
反対の手の爪の一本を、沈黙を要求するポーズのように唇の前に立てて、流麗に微笑んだ。
「愛のために」
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