第8話 ブラッドレス・プロダクト
一直線に飛び去りたい。
ヴィネガーはそう感じた。
手紙を届けるという目的を第一に遂行したい、という考えではない。
逃げ出したいと。可憐なる吸血鬼ヴィネガーは、このとき明確に恐怖を感じた。
その気持ちがにじみ出しかけるのを、ヴィネガーはプライドでもって抑えつけた。
結果的に、それは命拾いとなった。
もし背を向けて逃げ出していれば、きっと回避行動は間に合わなかった。
『標的を排除』
巨大人型機体ユースティティアが、剣を振った。
きりもみ回転して回避。その一連の動作を、ヴィネガーは無意識に完了させた後に自覚した。
剣の間合いに踏み込まれた自覚さえなかった。
一瞬前まで自分がいた位置に、剣の金色の残像が残っていた。
ユースティティアが踏み込んできた軌跡にも、金色。
ヴィネガーは状況を判断する。
メリーの推察通りの状況だとすれば、治安機構から見て自分たちは反政府組織に利する危険存在に見えるはずだ。
おそらく弁明の余地もない。手紙の存在、ひいてはその存在を知るトネリコら三名そのものが、政府にとって爆弾だ。
反論も投降も聞かず、握り潰される。
ユースティティアが動く。
不均等な十一枚の翼が、ひと打ち。
その一瞬後の斬撃は、三……四……五連撃。
よくかわせたものだと、ヴィネガーは自画自賛に笑う。
笑わなければやっていられない。
メリーもよく補助してくれた。青色の文字列の残滓。
笑え。ヴィネガーは自分に言い聞かせた。
笑わなければ、恐怖に呑まれる。
連撃が、移動の軌跡が、積み重なる。
回り込まれては百四十七の目で見つめられ、剣を向けられ、逃げ続ける。
まずいと。ヴィネガーは感じた。
軌跡が消えない。金色の残像。
高密度の文字列が流れるその残像は、残像でありながら触れれば確実に重篤なダメージを負うと、ヴィネガーは予感した。
街の方向で爆発音。
ユースティティアの視覚センサーが、一部そちらへ向く。
戦闘はここだけではないらしい。そうヴィネガーたちにも察せられた。
幸いだ。ユースティティアの注意がそれる。
それがどの程度の隙になるかは分からないが。
「トネリコっ……!」
声をかける時間さえもどかしい。
それでも呼びかけるだけで、ヴィネガーの意図は伝わった。
涙を。
進化の涙が必要だと。
「ダメ、です……!」
トネリコは首を振った。
そうだろうとはヴィネガーは思った。けれどそんなことを言っている場合では。
「責任持って、くださいよ!」
その言葉を、ヴィネガーは予想していなかった。
ヴィネガーの目に向けて、思いのほか強いトネリコの目がにらんできた。
「わたしのために命をかけて、それで死んで、満足するつもりですか!」
また剣撃。かわす。
消えない残像に追い込まれる。
追い込まれる中で、トネリコは怒鳴った。
「運命の人だなんだと口説いて、勝手に満足して逝くつもりですか!」
目まぐるしく逃げ惑う中で。
向けられたトネリコの瞳は、涙をこぼすまいと力が込められて、どこに向けてなのか、怒りにあふれていた。
「ヴィネガーさん、最初に言ってましたよね! 進化の血を放棄してもいいくらい、わたしのことをいいって思ったって!」
金色の残像に取り囲まれる中で。
トネリコは叫び、告白した。
「わたしだってそうですよ!! 手紙を届けるより何より、ヴィネガーさんに生きていてほしいって!! 思っちゃったんです!!
こんな気持ちにさせておいて、満足して死ねると思うなバカヤロウ!!」
一瞬、空気が止まったような感触がした。
ヴィネガーは息を呑むように唇をひくつかせて、何も言えなくて、その赤い瞳から、涙がこぼれてきた。
金色の残像が、もはやすべての逃げ場を奪った。
ユースティティアの剣が振り下ろされた。
それにメリーが、反応した。
跳び離れる。
剣に向けて、ヴィネガーの肩を蹴って跳ぶ、呪いの人形。
思考が追いつかなかった。
ヴィネガーは、トネリコは手を伸ばす。
届かない。
ヴィネガーの羽ばたき。ひと打ちの時間すらもない。
近づく剣と人形。
文字列が空中に散る。時間感覚がずれる。
呪いの人形は携帯電話に向けて、口を開いた。
『あたしメリーさん』
カード型通信端末が、その声を拡声した。
『ヴィネガーのことが好きなの』
◆
二十一世紀の星空は見えづらくとも、目を凝らせば確かにそこにあった。
例えば深夜のマンションで、人知れず屋上に降り立って、空をじっとながめていれば、やがて目が慣れて見えてくる。
そうやって、呪いの人形と吸血鬼は――メリーとヴィネガーは、星を見た。
「恋って、難しいものだわ」
あどけない唇が、つぶやいて。
はぁーっと、ヴィネガーが吐き出した息が白くこごった。
吸血鬼にも体温があるのだと、メリーはどうでもいいようなことを考えた。
考えてしまう。ヴィネガーの一挙手一投足、そこにある意味や理由を。その存在を。
「本当はね、魂で分かっているのよ。この人は運命の人ではないって。
それでも八百年も先の運命の人を待って、今の時間を無為に過ごすのは、我慢ならないのよ」
ヴィネガーは舌足らずな舌で言って、物憂げな微笑みを作ってみせて、空をながめる。
その横顔は、ヴィネガー自身の神秘性で燐光を発して、ほのかに輝いている。
美しく。
「無為じゃ、ないの」
メリーは声を上げる。
人形の顔だから意識して行う必要もないのに、ことさらに無表情を意識して。
「あたしと出会えたの。それだけで今の時間は、無為じゃないの」
ヴィネガーはメリーに顔を向けて、その無表情をながめて、それからふっと柔らかく笑った。
「そうね。メリーや、色々な、本当に色々な出会いがあった。
それは確かに無為じゃない、私の人生における宝物だわ」
ずきりと、メリーは痛みを錯覚した。
メリーは特別な一人ではない。
メリーはヴィネガーの、運命の人ではない。
分かっていたことだ。ヴィネガーの魂が、求めていない。
そもそも人形のメリーには、血を捧げることさえできない。
分かっていたことだ。
「ねぇ、メリー。あなたはあと八百年、生きられる?」
「……分からないの。でも生きてたら、そのときもあたしは友達でいるの。
ヴィネガーが困ってたら、助けるの」
「ふふ。頼もしいわ」
ヴィネガーは微笑んで、それから懐中時計を取り出した。
「私はこれから八百年、眠りにつくわ。
一人で眠るのはさみしいから、今たくさんぬいぐるみを集めてるの」
メリーに向けられたヴィネガーの顔は、いたずらっぽく。
「あなたも一緒に眠る? メリー」
「……遠慮しておくの。あたしは時代がどんなふうに流れていくか、見ておくの」
「そう。分かったわ。
それじゃあ目覚めた私があまりの世界の変わりっぷりに戸惑っていたら、メリー、助けてね」
ヴィネガーは微笑んだ。
友達であることを、友達であり続けることを、何ひとつ疑わず。
メリーは本当は、怖かったのだ。
眠りにつくヴィネガーの横で八百年、正気を保っていられるのか。
眠っているだけで運命の相手に刻一刻と近づいていくヴィネガーを前にして、自分は友達のままでいられるのか。
メリーは、身を引いた。
ヴィネガーには運命の相手が待っているのだからと言い聞かせて。
自分は血を与えることすらできないのだと言い聞かせて。
思いもしなかったのだ。
その運命の相手もまた、血の通わない存在だったなんて。
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