奇を衒わず、陳腐を嫌い

意味から遠ざかって、語の持つ意味を解体してしまうくらいに奇を衒うような文を書くことは可能だ。

また、平凡で使い古されたような言葉を用いて、美辞麗句を並び立てることもまた、難しいことではない。

問題は、いずれでもなく、かつ、ただ事実を述べただけだったり、写実を追求したような文章ではなく、それでもなお人をひきつけるような文章はどのようにして可能か、ということだろうと思う。

これは、言葉をどのように扱うか、という問題だ。


人工知能の発達によって、平凡で使い古された文や言葉を人間が書く意味がほとんどなくなったといってもいい。AIはほとんど完璧なまでに綺麗事を並べ立てる。正しさを追求しているのだろう。ハルシネーションを少なくし、より正確に、多くの人の要望を満たすように進化している。

問題は、AIの情報処理のベースが統計的な計算に依存しているという点だ。統計学を勉強して感じるのは、統計が傾向や正確さの確率、あるいは検定、あるいはその幅や点の推定などに優れているということで、逆にいうと、個別的な値、例外的な値に対してどのように対応すべきかという難しさがあるということだと思う。あくまで、私の知っている範囲の統計学ではある。実際には外れ値をより包括的に含むことも可能な統計的プロセスも可能なのかもしれない。

人によって心地よい、使いやすい、理解しやすい言葉だけが使用され、生成され、その言葉からまた新しいモデルが作られる、今はまだそのプロセスの途中にあるのだろうが、いずれはもっとつまらなくなっていくのではないかと思う。もちろん、入力の工夫次第という点もある。入力を奇抜にすれば、AIに多少の混乱を与えられる。混乱に乗じて変な回答を得られることもある。それは面白くもあるのだが、読んでみてもなんとなく意味から離れすぎているように思う。


人間の意味の体系はかなり複雑に絡み合っている。

現状、AIマルチモーダル化が人間レベルにまで進んでいるとは思わない。人間を機械と考えたとき、その入出力の過程の計算量はAIの比ではないし、基礎的なモデルは長い年月を経てDNAに刻まれている上に、生まれてからも可変的な脳の仕組みがモデルの改良を続ける。しかも常に、リアルタイムに。AIの進化はすさまじいが、言葉の並びのなかに時間的な意味を見出したり、物理的な前後関係を見出したり、感情の遷移を感情を表す言葉の言外に見出すのは難しい(が、ちょっとずつできるようになっているように見える)。

人間は言葉をかなり多面的に捉えることができる。一つの語に対して持つイメージは多様で、たとえばそれが色を表す語であっても、そこににおいを感じたり、肌触りを感じたり、思い出が伴ったりと、過去の経験のあらゆる面に自由に接続していく。AIのモーダルは今のところ言葉を中心として画像(映像)、音くらいの広がりしか持っていない。まだ狭い。

が、ウィトゲンシュタインのいう言語ゲーム的な考えによれば、私たちの持つそうした言語の意味の背景にある大きな庭は、単なる個人にのみ解放された庭であって、他人がそこに踏み入れることはできないのだから、意味をなさないということにもなる。使用だけがすべてだ、と。


本当に、使用にすべてが表れているのだろうか?


使用にすべてが洗われているならば、私がよい文章を書けないのは、私の経験や感性の蓄積の乏しさによるとしかいえなくなる。確かに、その通りなのかもしれない。

私はどのように私の言葉をよりよいものへと変えられるのだろう。

三島の『潮騒』を読んだ感動が忘れられない。どうしてあれほどまでに平凡で、ありきたりなストーリー、平凡な恋愛物語に、心を動かされるというのだろう。特別なプロットがあるわけでもない、ストーリーだって際立つものがあるわけでもない、もっといえば、文章だってさほど手の込んだものには見えない。描写そのものはむしろ写実的なのに、ストーリーはどこかふわふわと浮いているような気もする。そうした浮いてしまう印象をしっかりとどめておくだけの重みが言葉にある。文章にある。

三島になろう、というのではない。私にはわからない。あの文章がどうして魅力的であるかも、なのに平凡に見えることも、平凡に見えるのに素晴らしいものに見えることも、私の理解を越えている。

確かに文脈を踏まえているのであろう。三島は能の研究をしていたらしい。新潮の『近代能楽集』という書籍がある。過去とのつながり、古典への思いが強く現れていた時期のすぐあとに『潮騒』は書かれた。さらに、『金閣寺』の二年前の作品でもあるのだとい。守破離の破にあたる段階だったのだろうか、とも思う。『潮騒』が土台にしているのは、古代ギリシアの散文作品『ダフニスとクロエ』というものらしい。古典だ。解説には、西洋ではよく知られた古典だと書かれていた。

そうした古典を土台として書かれたものだが、また、ここには自らの経験も反映されている。舞台となる歌島(現在の神島の古名)に二度、訪れているのだとか。

Wikipediaには以下のように書いてある。

"

私は天才の小説を書かう。芸術の天才ではなく、生活の天才の小説を書かう。彼は決して成功者や、貴族や、大政治家や、富豪ではない。完全な生活の行為者であつて、終生世に知られることなく送るが、生れたときから、一種の天使であつて、追つても追つても、一種の幸運、一種の天寵が彼の身を離れない。ラテンの恋愛小説のやうな波瀾もあるが、つひに、愛する女と幸福に結ばれる。彼は小漁村の一漁夫である。それは私の書く最初の民衆の小説となるだらう。アルチュウル・ランボオの詩『幸福』

"

ほとんど予定調和といっていいほどの幸福な終焉には、微塵もカタルシスはない。苦しみや悲しみによって発散されるような解放感とは異なる、そこにはなにか、言葉にしがたい喜びのようなものがある。

私もそんなものが書きたいと切に思う。思うと同時に、こんなものを書ける三島由紀夫という人物の幅の広さ、奥深さというものが信じがたくもある。彼は『潮騒』の刊行の二年後に『金閣寺』を著し、十数年後に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自害した。

『仮面の告白』が彼の内面を部分的に表しているのだろうと思うと、その切実さは、考えてみるだけで切なくなる。

彼のようなぎりぎりの場所までいかなければ、自ら淵を覗き込んでみるだけの勇気(あるいは無謀さ)がなければ、あれほどまでに清廉で、潔癖な文章というのは書けないものだろうか。


私には、きっと誠実さが足りない。言葉で遊んでみることの楽しさに流れたり、奇を衒うくらい軽薄になってみたりと定まるところなく、ゆらゆら揺れてばかりで深みや重みが足りていない。それもひとえに、誠実さ故ではないだろうか。

肉体の鍛錬が必要だ、同時に、精神の鍛錬も必要だ。誠実さを貫くだけの強さが必要なのだろう。だから私は足りない。私は欠けていて、欠けているままを書いたところで面白いものになるほど豊かな人生も送ってきてはいないし、それなりのつまらなさを写実的に書いて作品として昇華するだけの実力だってない、となれば、どうしたものだか。

少なくとも、奇を衒うような偏屈な文章、意味のとりにくい文章を書いて読者にその意味の解釈を委ねるのは、まったくもって卑怯な手段だろうと思う。

かといって、誰にでも書けるようなつまらない文章、AIが書いたような退屈な文章ばかり書いていたってしかたない。

つまりは、私の自然から表現されねばならないということなのだろうけれど、それが容易ではないというか、それこそが、多分、生きているうちに一つでも二つでも書けたならば満足いくものなのではないだろうか。終着点というべき、私が辿り着きたいと思うっている場所なのではないだろうか。


……まあ、それは辿り着いてみないとわからないのだけれど。

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